たちきれ線香

 

 

あらすじ

船場の大店の若旦那が、慣れぬ宴席に出、南地の芸妓・小糸に一目ぼれ。小糸も色街の女に珍しい初心な心もちで、相思相愛の仲に。以来、若旦那の南地がよいは仕事も忘れての連日連夜。

一計を案じた番頭は、親族会議を催して、結果、若旦那は百日間の禁足、蔵入り。

この間、小糸からの文使いが毎日毎日。番頭は素知らぬ体で、手紙を引出しに。悲嘆の縁の小糸。若旦那の心変わり、とばかりに食も喉を通らぬ。

そんなある日、若旦那がかねて注文の三味線が届いて、屋形のお母さんに、なんとか慰められる。

以後も小糸からの文使いは続くが、その手紙は若旦那を差し置いて引出しの中に。

そして八十日目で文使いがふっつりと途絶え、番頭は「色街の恋は八十日限りか」とうそぶく。

 百日目、禁足を解かれた若旦那は、神詣り、と偽って、小糸の元へ。が、小糸は仏壇の位牌となって、すでにこの世に亡い。

折から三七日のきょう、若旦那は仏前で涙ながらに掌を合わせ「金輪際、女房と名の付く者は持たぬ」とつぶやく。

ふと、仏壇のかたわらに供えられた三味線が鳴る。ゆっくりと響きだすのは地唄・雪【ほんに昔の昔のことよ、わが待つ人もわれを待ちけん…………】そして…。

 

 

線香で芸妓の花代を勘定したという時代。一本立ちというのは、稼ぎに出られるような、線香が使える、花代を取れる一人前になったというのはここから始まる。

 

「定吉、ちょっとここに」

「あ、若旦那はん、きょうはあきまへん、きょうは若旦はんのそばに行くな、と言われておマス」

「おい、定、あたしは流行り病かい、誰や、そないなこと云うのは」

「そら番頭さんでございまして」

「ちっ、番頭の言うことは聞いて、あたしの云う事は聞けぬというのか」

「いえ、そんな」

「番頭は奉公人、あたしは跡取り息子の主人すじ、よう料簡せぇよ」

「もう…」

  やむなく定吉は若旦那のそばに。

「階下で、親類ご一統お集まりやな、あれ、あたしのことで寄り合うてはるのやろ」

「ああ、っとそれは、その話はしたらあかん、と番頭さんに

「また番頭かい」

「いや、もう、五十銭頂いてるのにな、かなんな」

「口止め料か、お前わずか五十銭でお主うに楯突くか」

「そんなぁ」

 大弱りの丁稚に、若旦那はおっ被せる。

 「一円遣る」

 「あッ、そないに」

 定吉はもう決心がくずれて、にッと笑いがおを作っている。

 「なんや、もう手ぇ出すか」

 定吉は、筒袖から欲まみれの小ぶりな掌を突き出している。

 「褒美はあとや」

 「あと、やなんて。当節は掛け売りなしの現金払いが流行りだっせ」

 「小生意気な舌や」

 「丁稚だすよって、銭儲けの心得を云わしてもろてます」

 「あとや、間違いない」5:44

「間違いおまへなんだら…えーと、あのー」

と、この期に及んで幾分うしろめたさも覚えているような定吉だったが、すぐ割り切って、あとは澱みもなかった。

「へー、わて、座敷へ煙草盆運んだり、お茶注いだりして、みなさんのはなし良う耳に入ってまんねん」

「言うてみや」

「一番先口火切りはったんが、親旦さんです」

―きょうお越し願うたのは、ご承知のとおり、当家には苦労知らずの金食い虫が巣食うております。

と親旦那が云ったというが、

「あんさんのことだっせ」

定吉が念を押しその唇の端を、若旦那は抓んでひねり上げた。

「痛ッタタタ…。なにしまんの」

「余計なこと云わんと先話せ」

 すぐ機嫌を取り直して定吉は続ける。

「親の意見もどこ吹く風のあの戯けのタコ八、――大旦さんが云わはったんだっせ、わてと違いまっせ」

――湯水のようにカネを使う、あんな極道息子になるとはユメ思いませなんだ、と大旦那。

斯くなる上は、勘当を決意した、が、なにぶん跡取りの惣領、手前一存ではそのような重大事を断行も出来ぬ。ここはみなみなさまのご意見を拝聴したい、

「と、こう云わはりましてん、大旦さん」

「それから」

「ほんで、最初に意見出しはったんが、京都の旦さんで」

――此処に置いておくのがまず遺憾、わしが京に連れて行き、わしの処で塩梅して見る。

「そうか、うちの親仁(おや)ッさんと違うて、京の叔父やんは話がわかる。若い時分には遊びもひととおり(こな)してはる人や」

「そうだっか」

「いやいや、京ならええがな、春は花、秋は紅葉、夏には七月じゅう祇園の祭礼、冬は湯豆腐で雪見酒とくる」

「一年中、ええこと出来るンだすなぁ」

「そうや、ええことばっかりや。祇園、島原、先斗町、上七軒、とな」

「若旦はん、そないに遊ぶ事ばっかりではあきまへんがな、盛大働かされまんのやで」

「働かす」

「高瀬の綱引き、させるちゅうて」

「なんじゃい、それ」

「ご存じおまへんやろが、わて、木屋町に親類居ますよって知ってま。高瀬川が鴨川の西に流れとりま、そこに高瀬舟ちゅうのが上りくだりしてま。くだりは流れる方で楽だっけど、のぼりは難儀だす、岸からひとが引いてのぼりまんね。引き綱ちゅうを肩にかけて、岸にこさえた犬走りゆうとこを伝うて。夏や冬には、もう大層な仕事や、あんなしんどい事、ほかにおまへん」

「ほかにないか……、で、わいはその高瀬の綱引きに決まったンか」

「もうちょっとで、はぁ、決まりかけ。京の旦はん、若旦はんみたいなモン、京に連れて帰ったら遊び心に輪ぁかけるようなモンや、あかん、と。ほんで、丹波の旦はんが口出しはりまして」

「丹波の叔父貴かい」

その丹波が、田舎がええ、わしのトコで預かる、と申し出た。

「わかってるね、叔父貴の魂胆は。お茂ゆう、むすめがおるね。

これが不器量で、なかなか片付かへんがな。従姉妹連中はどんどん嫁入りしよるのにや。親娘とも焦っとるがな、それでわてと目合すという、そういうこっちゃ」

「そうらっか」

「そうやがな」

「残念でございます」

「何や、何が残念やね」

「左様な目出度いはなしとは違いますね。やっぱり、働かされますのんや、牛追いさせる、と」

「牛追い」

「まだ買い立ての牛で、躾けのない、気の荒い牛やそうで」

これを若旦那に追わして、野良仕事をさせる。ところが牛はたやすくは動かない。若旦那はいらちの性ゆえ、尻のひとつも叩いて追う。すると牛が怒って、角でひっかける。若旦那は死ぬ。

「ほなら極道息子が片付いて、ええやないか、と」

「こら、なんちゅうこと云う」

「あてとちゃいまんが、丹波の旦さんだす」

「わかっとるが、それであては牛の角に突かれることに決まったか」

「決まり、かけた。兵庫の御家はんが」

「兵庫の叔母が、どないや、て」

「そないに要らぬ息子なら、わたしが連れて帰ります、と」

若旦那はここで、またにんまりとする。

「そうかいな、やっぱり、おんなだけに思いやりがある。叔母はんとこな、海が目の前にある須磨のな、別荘持ちや。こらぁしめた、わての好きな魚釣り三昧やがな」

定吉はふむふむと大人っぽくうなずいて、

「御家はんも、ここの若旦那は釣り好きや、と聞いてるから、せっせと行かせる、と云うてはりました」

「せっせと? なにや引っ掛るな」

「引っ掛りますか、そら釣りには験の良え」

「しょむない洒落云うな、で、どういう意味やな、せっせとは」

「へえ、船底に穴の開いたぼろ船を持ってはるそうだす。若旦さんには荒しの日が来たら、それに乗って釣りに出てもらう。船ごと海に沈んだら、あの辺には鱶がうようよ泳いでいるそうで、その餌になったら、若旦さんの影も形も残らぬ。すると葬式出すカネも手間も省ける、とそう」

座敷の一同、それがええ、と全員一致の賛成の声。

「おんなの考えが一番えげつないがな」

 へへへ、と子憎たらしく、定吉は笑っている。

「で、わては鱶の餌と決まったンかい」

「へえ、決まり」

「―かけた、ちゅうのかい」

「へえ、それだす」

そのとき、番頭が膝を進めて進言に及んだという。

皆さま方、なんというお話し合いをしてなさいます、ご冗談も過ぎます。若旦那がいくら放蕩三昧にお過ごしやとゆうても、定命まで断つような御無体は慮外でございます。若旦さんがおカネをむさんこにお遣いなさるというの、お生まれになられてこのかた、ただの一度も稼ぐということをなさらなんだ故やと存じます。

つまりは銭カネの有り難味ということをご存じないのであります。でまぁ、手前考えますのに、この際、若旦さんを、乞食に。

往来に座ってあたまの三度も下げて、やっとひと様のお慈悲が下る、その乞食に仕立てて、おカネの有り難味というのを。地べた一寸掘ろうが、三寸掘ろうが、一銭銅貨も出て来ませぬ。五十銭の御恵みを受けて、このカネの有り難味が心底身に沁みるのではございませぬか、と番頭は長広舌を揮った。

「さすが、番頭はんは()えこと云う、さすがこの大店を仕切るだけの器量人やとか何とか、番頭はん、みなさんに誉められて、あの大きな顔、紅うしてはりました」

「そうかいな」

「ということで、あんた、若旦さん、乞食ということに決定だす」

若旦那はあらぬ一点をみつめて、座ったまま蛙のように平たくなっている。

「いま、お福どんが奥から一番草臥れたきものを取り出してきまして、一生懸命に継ぎ当て、乞食継ぎゆうやつを沢山こさえてます。ほいで、幸助どんが、わしは縄帯をこさえるゆうて、せいらい縄綯いしてま。丁稚らも負けてられへんゆうて、頭陀袋をこさえてご寄進しよか、と。へい、乞食の用意が現在着々と進行中でござります」

あれこれ定吉に聞かされて、若旦那は顔を赤黒く染めて、怒り心頭、怒髪を衝く勢い。だッと階段を駆け降り、座敷の襖を、ぐわッと開け放つ。鬼のような形相で、親戚一同を睨んだ仁王立ちのまま、

「親仁っさん、なんだす、驚いてなはるか、一人息子のあてを平気で廃嫡できる薄情なお人が、いまさらなんですね、度肝の太いお方にその顔は似合いまへんで。なに、京の叔父やん、高瀬の綱引きさせる? ああ結構でおます、舟引きなら、音頭が要る。叔父やんの名でも木屋町じゅうに聞こえ渡るように呼ばしてもらいまひょかい。おー丹波の叔父貴、あてが牛の角にかかって死んだら儲けモンであすか。牛の角でも、馬の脚でも、なんにでも掛けたら宜しがな、このあてはどうせ犬畜生にも劣る道楽息子だすさかいな。兵庫の叔母はん、よう云うてくれはった、泥船同然のぼろ船に乗せて、鱶の餌やと、女の身でようもそんな酷い事が言えますな。番頭、お前は子飼いのクセして、あてを乞食にするやと、忠義ヅラしてよくもまぁ。ああどうぞ、惣領のあてを乞食に落としてくれ、さぁ明日から宿無しの天下晴れての乞食にしたってくれ」

番頭、ゆっくりとした手つきで帯を探り、煙草入れから煙管を取り出し、その雁首に煙草を詰めた上は、煙草盆を引き寄せ、火鉢で小炭をつまんで煙管に火を点ける。一服、勢い好く吸って、煙を吐いて、二服目を若旦那のまっ赤なかおを見上げながらゆるゆるとくゆらす。そして、すうーと煙を吐くと、煙管の雁首を煙草盆の灰吹きに、丁、と当てて灰を落とした。

「若旦那、お座りやす、お座りやす。仮にも船場のご大家の跡取りである御方が、並み居る目上の方々に、ひと言の挨拶もなく、いきなり襖を開けて、頭の上から物言いを付けるとは何事でござります。まずは平らにお座りやす、座ンなはれッ」

若旦那は、そこは行儀が身に付いたぼんぼん育ち、番頭の迫力に気圧されて、他愛もなく座敷の隅に腰を沈めた。

「手前、今は番頭でも、もとは丁稚奉公からこの家のご恩を受けました、紛れもない丁稚上り。それが若旦那、あんさんを乞食にいたすと申し上げましたが、わしゃ成らぬ、いやじゃ、と申されますのを、押し切ってまでいたす訳には参りません」

若旦那、座敷の隅で大いにうなずいている。

「その若旦那ご本人が、あしたから宿無しの、天下晴れての乞食にせい、大見得をお切りになりました。これは願うたり、叶うたりのまことに慶事でござります」

若旦那、腕組みを解いて、泡を喰っている。

「ほい、丁稚どん、用意できたか、こっち持って来なはれ」

番頭が襖向こうに声をかけると、定吉が乱れ箱を捧げ持ちに入って来た。

「どうです、全部揃うてます。おタキどんが大急ぎで縫い上げた当て継ぎの乞食衣装、権助どんが縄の帯、丁稚連中が頭陀袋を寄進するとゆうて、これもおタキどんの針が通っているのかいな、これなら雨、嵐、日照りの下でも、長い間保つことやろ」

定吉が開け放しにしておいた襖から、かまちの際で頭を下げている女の姿が見えた。

「ああ、よろこびなはれ若旦那、乳母のお梅はんだっせ。

こっちお入り、お梅はん」

お梅は座敷の敷居ぎわまで入って、あとは遠慮して、その場で布巾に包んだ持参のものを定吉に手渡した。番頭がそれを解いて、

「ああお梅はん、よう気ぃ付いてくれた。若旦那、有難いことでんな、さすがお乳母はん、わが乳を分けたおひとへの気づかいは格別や」

番頭はお梅持参のその品を手に取り、ほとんど得意そうに云った。

「欠け茶碗に、塗りの剥げた箸一対。これがなけれゃ、たちまち困る。手づかみでご飯は食べられまいという、お乳母さんの情でございますな」

と番頭は品々をまとめて若旦那の前に押し、やおら立ち上がって、さぁ若旦那、と襟をつかんで引っ張り上げた。

「な、なにをする」

「こないな、上等のお召し物では乞食に成れまへん、さ、早よ着替えまひょ」

無理矢理、若旦那を立たせ、腰に太い腕を回して、帯を解きにかかる。さらには片足を使い、「若旦那、さぁ」とひょいと乱れ箱の継ぎ当て衣装を器用につまみ上げて、腕に掛け、片方の手で帯を解きながら、もう片方で若旦那の肩に乞食衣装を被せようとする。その腕に必死に抗い、

「やめてくれ、こんなもん着ておもて歩けるかい、やめんかい」

「あんさん、天下晴れての乞食にしてくれと仰った」

「いやもう、乞食はあかん、乞食はイヤや、乞食には成らん」

叫び声を上げる若旦那に、番頭はやっと手を緩めて、

「なに、乞食はいや、乞食には成らん、いまそう仰っいましたな」

「仰った、仰った、金輪際乞食は堪忍してくれ」

ならば、と番頭は若旦那の肩を押さえて、座らせ、自身もその前に正座した。

「乞食が堪忍なら、お出来になることをやっていただきます。往来で地べたを張る事はおません。本日より都合百か日のあいだ、三番蔵に籠っていただきます。三番は蔵の品が掃けて、丁度空きになっておます。いいえ、板敷のままにはしまへん、畳も入れ、夜具も運び、調度も揃え、小僧もひとり付けます。これに日常の御用を仰せつかわしゅう。食べ物、読み本、何くれとお世話いたさせます」

入浴も行水ぐらいの用意はする、万事気ままに過ごして結構というから、若旦那はこれ以上抗弁する気力は失せている。

入ってやろやないか、蔵ン中、それでみなが得心行くンならば、とすでに覚悟を決めて、何やら凛とした佇まいで居た。そして、自ら立ち上がって蔵に入り、重い扉を閉めた上は、番頭が大閂を掛けて、蔵入り一日目を始めたのは、間もなくのことであった。

 

そもそも、なにゆえ、このごく気の優しい良家の惣領が、蔵に押しこめられるような始末に至ったかといえば、船場内の集まりに体調すぐれぬ大旦那の名代で、若旦那が出向いたことに端を発していた。

席には芸妓衆も花を添えていた。若旦那にお酌の気づかいをしていたのが、南地の屋形、紀ノ庄の娘ぶんで小糸という芸妓。別段、貧しい身の上で芸妓になったわけでもない、屋形に生まれた星が、ごく自然にこの道を辿らせた。ごく初心な、というより、芸妓にこれほどおぼこさがあるのかというほどの可憐な性根の持ち主。それが若旦那にも、心から可愛いと思わせて、小糸にその思いがすぐ伝わって、こんな優しいひとが、と相思相愛、互いに一目ぼれの夢見ごこちと相成った次第。

かくて毎日のような若旦那の南地がよいは始まった。お茶屋に行くというまどろっこしい事はもはややっておれぬ、じかに小糸の暮らす屋形に向かう。ふたり差し向かいの水入らずで逢瀬を重ねる。

「えらいことに成り果てた」と番頭はじめ家の者が意見をさしはさむ。

しかし無我夢中の若旦那にとっては、耳たぶにも擦れぬ他人の世迷い言。こうなっては親類一同相集い、重々しくも親族会議を打ち催せば、当人もいささか耳を貸すはず。きっと勘当、廃嫡という言葉がその場で交わされる、というそんな重い集まりであった。

蛇足ながら、この当時、廃嫡や勘当という手段があったことをあらためて云って置かねばならない。無論、今はそんな制度はないが、戸籍から外れてまったくアカの他人、相続すべき家も財産も、すべて縁が切れる、当人には無一物の仕打ちである。1

当人にとっては死活問題ゆえ、気になって周辺、つまり丁稚小僧をつかまえて、様子を探ろうとするであろう、番頭はそこまで読んで、というわけで、これも番頭の差し金で、丁稚に大いに煽るような事を云わせる。若旦那は大慌てで、飛びこんでくる、その首根っこを掴んで、蔵に放り込む。万事その図のとおりに運んで、若旦那は蔵の中で大人しく寝起きしている。

蔵入り二日目の午後、粋な縞木綿の若い衆が店先に立った。見る人が見れば、これは色町の男衆とすぐわかる。その若い衆がのれんの端をちょっとめくり、

「若旦さんは、ご在宅で」

「ただいま、留守にして居ります」と番頭。

何時頃の帰宅か重ねて訊ねる若い衆に、それはわかりかねます、の連れもない返事が。

「なら、すんまへん、ちょっと手紙を預かって来まして、内緒で、こそっとでんな、若旦さんにお渡し願えまっか」

「たしかにお預かりいたします」

という次第で、選りによって番頭の手に色町からの手紙が託された。

番頭は託されたそれを、かたわらの小抽斗に収めて鍵をかけ、何事もなかった顔で居る。

翌朝、男衆、またやって来た。「へ、どうも、へ、若旦那」

番頭がまた迎える。「他行中でございます」

「いつ頃、お帰りで」「さて、何時になるやら」と冷淡な番頭。「ほなら」と手紙を番頭に託す男衆。番頭、手紙を抽斗にピシャ。

同じ日の夕刻。「へ、どうも、へ、若旦那」とまた男衆。番頭「まだお帰りになりません」で、受け取って、ピシャ。

次の日のあさ、女衆が表のくぐりをそろそろと引いて、「へ、どうも、へ」

と来たから、番頭「もう、へ、若旦那は他行」

「へ、こないな早うから」で、番頭、手紙を受け取り、ピシャ。

こんな具合で、手紙が来るわ、来るわ、日に二回が三回、三回が四回という按配だから、溜まること、溜まること。番頭の手だけでは追いつかずに、丁稚も動員しての文使いへの応対。挙句には、沿道に千日詣での勘違いまで出て、見知らぬ男女が店に入って来る始末。

退きも切らずに届いた手紙が、八十日目でふっつり止んだ。

この時、番頭が破顔大笑。「色町の恋は八十日かい」とつぶやいた。

「若旦那、ご機嫌よろしゅうございます」

「番頭さん、ご機嫌さん。見せの連中、みな息災か」

「はい、みな息災に過ごさしてもうろうております」

「けったいな具合や、ひとつ家に暮らしながら、妙な挨拶やないか」

「さて、若旦那」

「なんやいな」

「即刻、この場をお引き払いを」

「なに、蔵から出られるのか」

「いかにも左様でございます」

頭を上げた番頭は、若旦那の疑問を呈する顔をながめて、

「百日の満願でおます」

 若旦那のかおから緊張が消えて、へなっ、と目尻も口はしも下がって気の抜けたようになっている。

「月日の経つのは早いなぁ。当座は一日一日が永うて、ああまだ一日目、ああまだ二日目、まだ三日てな具合やった。よっぽど経ったと思うてもまだ十日。そのうち、指折り数えるのも骨折り損と悟って何も考えへんようにしたがな。そうしている間のきょうや。これはもうそんなに経ったか、という思いやがな」

「なによりのことでございました」

「しかしなぁ番頭どん。蔵というのも住めば何とやら。この誰にも煩わされンなかでは、余計な思いは一切たちきれる。本を読んだら真っ当に腹に納まる。第一、自分を振り返るがな。思えばわしは馬鹿な事にうつつを抜かし、親の意見もどこ吹く風の、ほんま、阿呆やったと、しみじみ考えたがな」

番頭は若旦那の偽らざる述懐に、ほろりとさせられ、同時におのれの策がこうも図に当たったことに満足この上ない思いであった。

「大旦那、ご(りょ)んさん、お待ちでござります」

「そうか」

「ところで若旦那、あんさんが蔵にお入りの次の日、南地の芸妓」

といいかけた番頭の口を押え、若旦那は、

「何を云い出すねン、せっかく忘れようと骨折って、ようようこころのうちから消せたと思うてたことを」

と、慌てて封じていた。

「いえいえ、そこを押して、これだけは聞いていただかねばなりまへん。男衆の使いで手紙その芸妓のもとから手紙が参りました。その日だけやおません。それから連日、ただごとやおへん、連日というても、日に一度が二度、さらには三度が、四度。丁稚がひとりその応対に掛かりきりに成らざるを得ぬ、という忙しさ」

「そうか、そんなにか」

「それが」

「それが? 」

「八十日目を数えて」

「数えて」

「ふっつりと途絶えましてございます」

「途絶えたか」

「脈を上げた、ということでっしゃろな。命がけの色恋なら、日に一便の手紙で可え、それが若旦那が晴れて蔵をお出になるきょうまで続いていたらと却って惜しまれます」

「惜しむか」

「どうぞ、南にお出かけ下さっても構いませんが」

「いや、そんなことなら、もう足は向けん」

「いえいえ、そんな悪処ならば、とうにお上から差し止めになっておます。結構な処やというではありませんか、手前も一度出かけてみたいと存じます。盛大、お出かけいただいて結構ではございますが、あくまで遊び、遊びの分を弁えていただく分には誰が文句、小言の口出しするものではございまへん」

「遊びの分別やな」

「さいでおマス。ときに山ほど届いた手紙、一通もお目に掛けぃでは申し訳ございません、一番上に乗っていた一通をここにお持ちいたしましたので、ひとつお目通しいただきたい」

「そうか、読んでも構わんか」

「どうぞ、いっそ後学のために手前に読んで聞かせてやっておくれやす」

若旦那、手紙を披きましたが、一番上に乗っていた、というのは一番最後に来た手紙。

若旦那の手がふるえています。墨はかすれて、文字は千路に乱れている。

 

此の状、ご覧に相成り候えば、即刻のお越しこれ無き段は、今生にては二度とふたたびお目に掛かり難く候 かしく

 

遊女 釣り針のような かしくで 客を釣り

という川柳があるが、いそいそと若旦那は手紙をふところに仕舞い、

「ところで番頭どん、じつは蔵に居る間に天神さんに願掛けした。百日の満願を無事迎えますように、ちゅう願やが、こうして蔵を出たあかつきには、すぐにもお礼に詣でなあかん」

「それは結構なお心がけ、是非お出ましを。ですがその前に大旦那さんにご挨拶を」

「いや、それは、とにかく誰に会うより先にお礼詣りを果たさなどむならんのや。じきに戻ってくるさかい」

「ならば、せめて風呂に入り、おぐしを整えたうえは、着物のもお着替えになって。風呂も沸いて、床屋も出向いております」

「なら、きれいしてから」

と若旦那は慌てる気持ちを抑えに抑えて、身支度を整えた。玄関を出た途端、脱兎の勢いのごとく、南を向いて駆けだした。

息せき切って、南地は紀ノ庄の、黒板塀に見越しの松を上げる表口へ。

「ご免、ご免やす」

紀ノ庄の屋内では、屋形の女将が、気力の抜けた声で、

「お仲、どなたかお見えや、お迎えしなはらんか」と女中を促している。

玄関に出たお仲、慌てて引っ返して来、

「若、若旦那が」

「それではわかりまへんがな、どこの若旦さんやの。なに、あの若旦さんがうちに来はるはずもない、なにお人違いして」

みずから迎えに立った女将は、そのひとと見て、目を瞠った。

「じき、じきに帰らないかんのや。どうか小糸を。きょうは小糸のかおだけ見て、後日あらためて、ゆっくり事情を語らせてもらうから、な、ちょっと顔だけ」

「若旦那、小糸に会いとうおますか」

 若旦那はせっかちにかぶりを振って「会いたいから、こうして来た」

「小糸は奥に居ります、どうぞ」

女将に招じられて、若旦那は草履を脱ぐのももどかしい勢いで、かまちを踏んで、中へ。

「どうぞ、小糸です」と女将が向けたものは、仏壇に収まった位牌である。

「な、なんや」

「そういう次第でおます」

「な、なんで、なんで死んだのや、だれが殺した」

「そんな、だれが殺したやなんて、そんな云い方しはるなら、あんんさんが殺しなはったと云うしか」

「なに」

「若旦那、最期にここへお出でになったとき、小糸に芝居行き約束してくれなはったな。小糸、よろこんで、髪結いに行ってきて、あの娘ゆうたら、朝まで寝ンとこうしてる、と。髪がつぶれたら、若旦那に愛想尽かされる、と云うて」

若旦那、鼻の奥がつーんとして、啜り上げている。

「その朝、早うにここに座って、お出でをお待ちしてたンです、あの娘。それが九時になっても、十時になってもお越しやない」

もうお芝居、始まっているのに、と小糸が泣ごえを出す。

女将は、あんたひとりが買い切った若旦那やない、なんぞお急ぎの用事が出来たンや、きっと、となだめた。

やがて昼をまわって、二時、三時。

「うち、若旦那に嫌われた、うち若旦那に棄てられた」

小糸はついに、滂沱となみだを流して、女将にすがった。

「その日、小糸は泣き寝入りに寝てしまいました」

「可哀相に、可哀相に」と若旦那は胸の締め付けられる思いだった。

「翌あさ、小糸、いつまで経っても寝間から出てきません」

心配した女将が寝間に行ってみると、小糸は思い詰めた表情で天井をみつめていた。

「起きなはらんか」

「おかあちゃん、うち、若旦さんに手紙書いたらあかんやろか」

「なに云うの、あんな固いお家に、色町から手紙やなんて」

蒲団の胸のあたりが反り上り、小糸の目が濡れた。

「ほならな、ちょっとだれぞ、気の利いた使いになってもろて。一回、書いておみるか」

 若旦那、ひとすじ、つーと頬に。

「使いの男衆が戻って来たら、他行中、というただそれだけの返事。そそれで、納得のいくような状態やおません、小糸それから、まいにち、まいにち、手紙を。うちの子ぉらも、小糸ちゃん、あても書いてあげる、あても、あても、とずーと机ならべて。うちまるで手習い屋みたいになって」

 後悔とも何とも云えぬかおで、若旦那は女将をみつめている。

「手紙はどんどん出来ます。使いもどんどん走ります。けど、ご返事はいつも、若旦はんは他行中でお留守です。小糸も見る見る元気が無うなって、ご飯もいただけンようなことに。お医者を呼んで看ていただいても、お医者はんは、これは薬の盛りようが、と困りきったかおしかしてくまへん」

医者も女将の慰めようもお手上げ、というとき、三味線が届いた。若旦那が小糸のために誂えていたそれが、ようやく出来上がって届けられたのだ。若竹屋の届けた三味線には、小糸の紋、若旦那の家の紋、両者が比翼になって打たれている。

「ああこれはなによりの薬になる。早速、小糸の枕元に運びましたえ」

小糸は三味線を愛おしそうに眺め、やがて「弾いてみたい」と云い出した。女将は衰弱した身が無茶な、と思ったが、お仲に後ろから介添えさせて、小糸の半身を起こした。しかし、小糸の手は、三味線の調子を合わせることが叶わぬ。女将は三味線を取り、自ら糸を鳴らし、駒を絞って、長子を整えた。

小糸はその三味線を抱え、ひと撥入れる。ところが後がない。

「どないおしや、弾いてみぃな」と小糸をのぞくと、

「もうな、そのかおがこの世のモンでは…………」

「……知らなんだ、知らなんだ、そんなこととは…………」

若旦那はもうことばもない。

「わしは蔵に放り込まれていて、……ちっとも……」

「そないな按配やないかなぁとは思うて居りました」

  うなだれる若旦那に、

「きょうは、へぇ若旦さん、小糸の三七日(みなぬか)。ちょうどそんな日に来てくれはるやなんて、これも小糸の念からですやろ。もうじきに、朋輩のみなも寄ってくれます。あ、お仲、この位牌戻して、それから三味線な、あれお供えしておくれ」

 仏前に座って、若旦那は掌を合せ「なにも知らなんだんや、堪忍やで……」とつぶやき、長い間、合掌の姿勢をくずさなかった。

鼻を啜りながら、座を退いた若旦那に女将は「どうぞおひとつ」と猪口を取らせようとする。

「酒なんか、飲むような気持ちやないで」

「いいえ、唇も濡らさンと帰らせたとなれば、小糸に叱られます、供養のおつもりで、どうか」

ぐっと猪口を傾けた若旦那である。

「おかあさん、えらい遅うなりまして」

華やいだこえが玄関に起き、湯上りの匂いとともに若い芸妓が現われた。

「あ、おかあさん、もうみな風呂で豆丸ちゃんにさんざターさんののろけ聞かされまして、きょうは小糸ちゃんの法事や、早よ上って、おかあさんのとこ行かな、ゆうてんのに。ほでな、みな急きたてて風呂上って、番台でな、べべ着てて、ふっと見たら、あそこ提灯飾ってますやろ、番台の後ろの神棚のところ。それ見て、ああ小糸ちゃんの提灯、これ来年は無うなるんや思うたら、あて、もう…………折角のお化粧、もうわやや」

「なぁ、よう泣いておくれやった、愛丸。きょうはな若旦那もお出でになってるのン」

「え、若…、小糸ちゃんのかたき」

思わず上げられたのを女将は制し、

「お話伺うたンやで、どうにも詮無いわけがお有りやった。なにも云うたらアカン、なにも云わんとこっちお入り」

若旦那の前に出た愛丸は、徳利を持ち上げ、「どうぞおひとつ」と神妙に酌を差した。そうか、若旦那は受けて、仏壇に猪口を持つ手を向けて、

「小糸、いただくわ」と一口すすり、むせ込んだ。と、そのとき、

「きゃあー、おかあさん、小糸ちゃんの三味線が鳴ってる」

 仏壇に供えた三味線が爪弾きを奏で………やがて地唄の「雪」が…………花もゆきも、払えば清きたもとかな……ほんに昔の……。

 

ざわめく一座。

「しー」と女将は一座の声を封じる。聴き入る一座。

若旦那、しみじみと「小糸、さぞ恨んだやろな。こんなことと知ったら、蔵破ってでも飛んで来るべきやった。小糸、わしゃ生涯、女房と名の付くものは持たんで」

「小糸、いまの若旦那のお言葉、届いたか。千部、万部のお経より、さぞうれしかったやろ。いまのお言葉胸に留めて、迷わず成仏しておくれや」と合掌する女将。

地唄が、ふっと消える。一座、「なんで、もっと、続けて小糸ちゃん」

若旦那も「小糸、最期や、もっと続けてくれ」

だが、仏壇からは何の音沙汰もなし。

女将が肩を落として云った。

「若旦那、なんぼ云うても届きませんわ」

「なんでや」

「お仏壇の線香がちょうどたち切れました」

(了)