堀 川 戎
一
―おけいはんは、しまつのええ。
もうそんな噂が囁かれている。
板場から小切戸を潜ると、じっと沁み入るような夜気にくるまれたきのうの夜更け、蕪の葉をどっさり小脇に抱え、おけいは家路に着いた。
臆面もないその姿が、三々五々帰宅する誰か同僚仲居の目に止まり、底意地悪く噂の種にされてしまっている。持ち帰った蕪の葉は、きれいに水洗いし、塩をして甕に漬け込んだ。
『稲久』の冬場の名物料理は、柚子餡をかけた蕪蒸しと決まっていた。浪花料理屋番付で東の関脇に数えられる店なのだ。材料になる蕪は何しろ大量に使う。茎長の野菜くずも、自然板場の隅で山積みになっていく。
「漬け菜にでも。―」
おけいの申し出に、料理人の松吉もよろこんで協力してくれた。
（ええわ、何といわれようと。かえって励みになる）
おけいは開き直っていた。色白の頬を染めながら、二十五歳のやもめの覚悟である。かたちのよい二重まぶたが瞬いて、ひとみに、潤いのある光彩が射していた。
かねて一念発起の、倹約の心懸けだった。暇つぶしの陰口だろうと、年増仲居の憎まれ口だろうと、こうして他人の口の風あたりに晒されてしまえば、かえって性根がすわり、ここ二年と持ち堪えた覚悟が心底根をおろしてくれるだろう。たとえ性懲りも無い耳障りなさえずりでも、愛想笑いの一つも返していい、ぐらいにおけいは明るく受け止めた。
もともと倹約のこころざしは、ここ大坂の地では、蔵持ちのあきんどからおけいのような裏借家ずまいの庶民にいたるまでの、結構な徳目のひとつとされている。土地柄も味方についているではないか。
（そうやわ、いっそ女将さんにまで聞こえたら。―）
この際、おけいに魂胆がある。おけい達『稲久』の仲居といったら、仕着せの薄紫の小袖に立て矢に結んだ黒繻子の帯、白足袋に紺前垂れの、なかなか粋なすがたで客を応対するが、問題は前垂れと足袋である。汚れると、銘々が持ち帰って洗濯する。が、案外怠る者が多い。前垂れに乾涸びた料理の煮汁を張り付けたまま、あるいは薄汚れた足袋の底を見せて、何日も客席を立ち回っている者が、結構いる。これをおけいが日を決めて回収し、それぞれ三文あたりで洗濯おんなを引き受けようというのだ。
折角の噂である。えい、と開き直って、あからさま女将に申し出ればいい。年明け早々にも切り出せば、ご祝儀がわりの良い返事が貰えそうな気がする。
おけいの、この一念発起――。
それは亭主の死がきっかけだ。道楽ものという以外、今となってはおけいには特段情のこもった感想も湧かない亭主である。嘉久蔵といい、江戸から流れてきた背の高い大工であった。
引き締まった輪郭に濃い眉と整った目鼻立ち、身ごなしは風を切って、見栄えこそ人並み優れていた。が、こと仕事となると腕のある職人だったのかどうか、おけいにはよくわからない。それでも口先だけは間違いなく気負った男で、京や奈良の古社仏閣を、「江戸の技で洗い上げる」ためにやってきた、と常から嘯いていた。江戸は寛永寺、増上寺の公方様菩提所、日光の東照宮まで修復した歴とした宮大工という触れ込みだが、おけいの見るところ、江戸を食い詰めた流れ大工に過ぎないようでもある。生前、この大坂の地では、一度として宮大工の腕を買われることなどなかった。
もっとも、京と江戸が、天朝側、幕府側、と対立して、何かともの騒がしいこの時節、悠長な修復に乗り出すような大寺、大社など上方でそうそうなかった。しかも、親方もいない鑑札一枚を頼りの流れ大工である。おけいと世帯を持った嘉久蔵が出かけていく先といえば、長屋や風呂屋の修繕といったしみったれた普請場であり、小器用だけが売りの便利大工と大差なかった。
それさえ普段はいろいろ言い立てて、腰を上げるのは、二つに一つ。たまにそこそこの仕事に駆り出されると、「どうでぇ、贅六にも目のある奴がいるじゃねえか」と張り切るが、その稼ぎは鐚一文持ち帰らない。酒と、曽根崎や島之内あたりの見世女郎に注ぎ込んで、すっからかんの空っ脛になって、ようやくおけいの元に帰り着く。
（なんで、こんな男と一緒になってしもたんやろ）
ときどき思ったが、天神祭りの人ごみで、おけいのたもとを探る掏りの腕を、サッと抑え込んでくれたのが運の尽きで、上方おとこになはい淡白な颯爽ぶりに惹かれて、ついには天満の裏路地で世帯を構えるまでの仲とはなった。
さあそれからが、おけいには試練の連続であった。この亭主、仕事のないときは、朝から酒を呑み喰らい、生活のためおけいが伝手を頼って見つけてきた針仕事を横目で睨み、
「けっ、あまぁ、あてつけやがらぁ」
と言うや、撲る蹴る、果ては髪の毛を掴んで家じゅう引きずり回す、などの乱暴は長屋の下水溝を走る鼠に出くわすより頻繁にあった。そんなとき、おけいは茫然とただ打たれている。夫婦喧嘩などとはとてもいえない。
（死ぬ）
と思ったときは、這ってでも逃げ出すが、隣家に救いを求めるおけいこそ憐れである。恥も外聞もない放心状態で、髪振り乱し、ほうぼうに青痣つけて、幽霊のようなすがたで逃げ込むのである。
憐れ極まったのは堀江に住む道具屋の後家の出入りである。最初、嘉久蔵とは出逢い茶屋での密か事だったのが、いつか悪びれもせず、赤い塗り下駄をチャラチャラと鳴らし、澄ました顔で長屋を訪れるようになった。戸障子を半分ほども開け、おんなが流し目を送ると、おけいは亭主に突き飛ばされるようにして、家から締め出される。
小半刻ばかりも路地で立ち往生していると、
「またかいな、入りいな」
と近所が声をかけてくれるが、これは何よりおけいには辛かった。好意に甘えて、戸口を潜れば、あがり框に腰をおろし、とても口にしたくもない話題を呟かされる羽目になる。そのことの頃合が計れるようになってからは、天満の天神社や曽根崎の露天神で余儀ない時間つぶしをするようになった。が、それでも最初は、境内の賑やかな人波に揉まれつつ、何のあてもなくただ時間の経過を待っている自身が、不甲斐なくて、焦れったくて、情けなくて、涙がぽろぽろこぼれて仕方がなかった。
（惨めなおけい、意気地なしのおけい）
同じ参道を行ったり来たりしながら、ひとり何度となくつぶやいていた。
近所合壁、天満桶之上町の長屋の住人で、おけいに同情を寄せぬ者はひとりとしていなかった。
「もう、あんなんとはわかれます」
なぐさめの一つもかけられる井戸端で、何度長屋の女房連に洩らしたことか。
そのくせ、嘉久蔵が下ろしたての紺が匂うような股引に、法被を引っかけ、上背のある肩に道具箱を担いで仕事に出かける時など、鼻の奥にツーンと江戸前のいなせが沁みて、つい惚れ直したりしている。ひとつ蒲団にくるまる夜を思い、躰の芯まで湿らせて、ただうっとり見送っていたのである。思い返せば馬鹿くしい、そんな夜には、たいがい帰ってこない亭主であったのに。
そんな男が、二年前の大晦日、蜆川の土左ヱ門になって浮かんだ。おけい二十三歳のときである。
報せを受けて、無論驚きはした。が、不思議に悲しみというほどのものは湧かなかった。やはり不面目な夫婦関係にこりごりしていたのであろうか、いくぶん吻っとしたような気分さえ掠めていた。
近所も同様で、
「やれやれやなぁ。――」
と隣家の八卦見の女房に言われたぐらいだ。あとは恥かしさが先に立った。
溺れ死ぬ三日前から嘉久蔵は帰宅していなかったが、いづれこんな死に方であろうと、かねておけいが想像していたそれと、似たり寄ったりのでたらめな最期ではあった。町方の調べでは、泥酔の果て蜆橋から転落し、気を失ったまま川に流されたというのである。
町会所は蜆川の東かたで、路地奥に二間間口を張っていた。おけいは羽織を着込んだ家守同道で、神妙に戸障子をくぐったが、迎えた定町廻りの同心河内可久之助は、拍子抜けするほど簡単に事件を落着してしまっていた。
河内によると、年の瀬の土左ヱ門は、金銭のもつれによる刃傷沙汰の挙句か、深酔いによる転落事故かのふたつきりで、この四十がらみの同心が、いかにも怠儀そうに、肥った首筋を朱房のついた十手で叩きながら言うのは、
「仏は、前後不覚のどろどろに酔うとった口やがな」
という、しごくあっさりした結論であった。
今回右に落着した次第といえば、かねて嘉久蔵が馴染みの曽根崎新地一丁目、小料理屋『いろは』の小女の証言で、前夜、嘉久蔵は一升以上も銚子を空け、帰る段には、足もとをよろつかせ、店の柱といわず、壁といわず、ぶつかり回ってようやくのれんを後にした。しかるに、しまい仕度で、掛け行灯を取り込みに出た小女は、辻向うに架かる蜆橋の欄干にもたれ、足を投げ出して、べったり座り込んでいた嘉久蔵を目撃したという。
さらに翌朝、小女が用足しに出てみると、蜆橋からほんの四町ばかり下った桜橋のたもとで人だかりがしている。近寄って皆と同様に川を見下ろすと、橋脚に引っ掛かって浮かんでいる溺死体があった。ぷかぷか川浪に漂う㊤印の法被姿は、馴染み客の嘉久蔵に紛れも無い。
これで、土座ヱ門の身元も、前夜の酔態も、大晦日だったという日限も、何もかもがひとまとめになって、吟味というほどの手間もかけずに事件は落着した。
（そうに違いないわ）
おけいも菰の下でふやけた死体になっている嘉久蔵をながめながら、河内の結論に異論はなかった。
五人組が埋葬を手配することになった遺体は置いて、町会所から樋之上町の長屋に戻ったおけいは、押入れの隅にあった空櫃を木綿で蔽い、線香立てなども据え、形ばかりの祭壇を設えた。一応、喪に付す仕度であった。が、じつのところ、通夜の準備などより、おけいには気が気でないことがあった。今日というきょうは大晦日というめぐり合わせなのである。死んでも祟る疫病神とは、嘉久蔵のような人間ではなかろうか。普段から銭も持たずに飲み歩く男だったから、ほうぼうの居酒屋、おそらく例の『いろは』にも、年の瀬まで借り越した晦日払いの勘定は相当溜まっているに違いなかった。
というのも、去年の大晦日、ささくれ畳のふた間のこの家に、ずかずかと上がり込んできたのが、おけいには思いも寄らぬ極道まがいの酒楼の掛け取り達である。入口にささやかな〆縄も飾り、吻っと一息入れていた暮れどきに、彼等は引っぺがすようにしておけいの虎の子の銭を持ち去った。さらには、外面ばかり気にする亭主だったから、酒以外に、どこをどう立ち回って、どんな借金をこしらえているかわかったものではなかった。時おり、建て付けの悪い玄関の戸障子が、ガタリと鳴ると、どきりとした。
もっとも、日のあるうちは、そうやって入ってきたのはみな長屋の住人で、線香の一本も燻べると、判で押したように、
――やれやれやなぁ。
と妙なお悔やみを残して帰って行った。その連中の誰も、焼香のあとは特段の用もなさそうだったが、みなおけいの世帯の不如意は良く心得ている。通夜酒が振る舞われるより先、年の瀬も押し詰まり、何となく気ぜわしいという顔つきと、突如寡婦となったおけいに済まないというふた色の顔つきを示して、そそくさ敷居を跨いで引き上げて行った。
そうこうするうちに、その年の大晦日もとうとう暮れてしまった。
（死んだら借金も帳消しになるんやろか）
ぼんやりと思っている。この時刻になると、さすがにおけいも落着いてきた。一人ぽつねんと、蝋燭の炎を眺めながらささやかな祭壇の前で座っていると、川向こうの本泉寺だろうか、ごぉーんと一つ目の除夜の鐘が聞こえてきた。鐘の音の余韻とともに線香のうす煙が耳朶をかすめていく。其処へ、
「ご免やす。――」
とまるで除夜の鐘を合図にしたかのように、見知らぬ男の声が舞い込んだ。がたぴし戸障子を鳴らして土間に入り込んできたが、続いて一人、そしてもう一人、――これは女の、三人が狭い土間に肩を擦りあうようにして突っ立った。
最初に入った木久屋と襟に屋号の半纏をまとった男が、
「えー、この度はまことにご不幸さんでござりました」
と殊勝にまず言って、祭壇のほうにちょんと頭を下げた。両手を合わせたその片方の腕に、帳綴じの懸取帳がぶら下がっている。三人が借金取りであるのは紛れも無かった。
「お取込みの際ではござりますが、手前どもはじめ、ここに揃いの方々は、ほとけはんが生前」
くにゃくにゃと木久屋の掛け取りが回りくどく言うところによれば、三人は何も連れ立って来たわけではないが、晦日の精算も気がかりのうち、といってきょうの訃報に、さすがの催促も及び腰に、とうとうこんな夜更けての参上になり、偶然ながら同じ思いの三人が、同時刻に長屋の木戸口で顔を合わせる次第になったというのである。
とは、口から出任せは見え透いていた。三人三様の狙いが図らずも一致したのだ。目当ては香典である。よるも更け、百八つの鐘が鳴り始める時分には、焼香台のそばにはいくばくか、弔問客が供えた香典袋も嵩を上げて積み重なっていよう。そう踏んだ思惑が、この刻限、偶然にも三人同時に長屋の路地へ導いた。三人土間にならんだ途端、六つの目が同時に祭壇を舐めるように窺ったのはいかにも浅ましかった。
節季の掛け取りは取れるところから先に回るというが、
（うちは何番目に来はったのかしら）
おけいはこの期に及んで暢気なことを考えていた。いや、もはや考えも何も、悪い予感が現実となって殆ど頭の働きは停まっていた。
「ほとけさんもさぞご無念で」
と木久屋の手代は神妙に言ったその舌で、大工道具を買い入れた残高銭四千文を催促した。そして上がり縁に懸取帳を披いて、「――とこうなってまんねん」と上目遣いでおけいに付け足した。次いで肩を入れるようにして、女が框に腰かけ、「お連れ合いはんにはご贔屓にして頂いておりました」と言ってから、書付を披いて酒代然然を請求したが、入れ替わって呉服屋の手代が示した懸取帳には、おけいははなはだ当惑させられた。
（緋綸子の帯、銀二十匁って、何のこと）
そんな帯を買ってもらった覚えはなかった。あっと憶い出したのは、例の道具屋の後家のすがたである。いつか家に入り込んできたとき、いかにも披露に罷り出たという風情で妙に腰をくねらせて、艶があって厚ぽってりとした紅い帯を締めていたことがあった。あのときの真新しい帯が、それにちがいなかった。
おけいには浴衣一枚、足袋一足も買って呉れたことのない嘉久蔵だった。今更こんなツケをまわされる破目になる自身が、がらん洞の木偶人形のように思えて仕方なかった。いまは空っぽの筒の中を、大風が吹き荒れて掻き回されているような気分であった。
言いようもなく腹は立った。だが、おけいに現れた変化は、ごくりと白い咽喉を上下させただけの、いたって非力な素振りでしかなかった。
掛け取りの請求は〆て金二両。おけいが遣り繰りする家計の半年分以上である。とても即座に払える金額ではなかった。
「これだけしか――」
と、懐から赤い縞木綿の財布を取り出して、逆さにし、中身を畳の上に吐き出した。ぱらぱらと散らばったおけいの所持金には、一匁程度のこま銀も混じっていた。が、殆どが銅錆びた青銭で、全部でせいぜい六百文ぐらいであろう。
金二両といえば、銭にして八貫文、つまり八千文という銭が必要なのである。
「どないしまひょ」
土間で腕組みしている三人を見上げ、つい洩らしていた。普段なら人の目も惹く涼しい三日月眉を、濡れ犬のようにたれ下げて、おけいはまったく途方に暮れる思いだった。
「む？ それはこっちの科白やっ」
と一番売り掛けの多い木久屋が、一同の腹の置きどころを代弁するようににわかに強面に出た。おけいは空らの財布を握り締め、その場ですくんでしまった。そのまま畳に目を落とし、銭を数え直してみたが、増える道理もない。ついには目を瞬かせながら、い草の畳表が擦れて、藁床が露わになった畳の破れ目を馬鹿のようにみつめている。やがて、ほうぼうに見つかるそれを、夢中になって目で追い始めていた。
「――あんなァ、お内儀さん。そら、不幸のあったきょうの今日とて、正月そうそうやもめになってしもうたあんさんには、ほら気の毒なこっちゃがな。しかし、わてい等も晦日の鐘の音ェまで聞いて催促せんならん身上や。膝折って線香上げさしてもろて、ほなさいなら、とこのまま大人しゅう退き下がれるような良え衆やないね」
木久屋が言う。この男はうすい顎をしゃくり、割と巧みに言葉を紡ぐ。
「で、とこう見回したところ、失礼ながらこちらはんときたら、担保になりそうなもんは、米櫃の底を掻き回しても出てくる気遣いはなさそうや。されば」
と木久屋は、案の定、祭壇の上の杉原紙の重なりに、じろりと粘っこい視線を送った。
「はぁ」とおけいはわざとすっとぼけ、
「せやけど、あれはあしたの葬列の費用に要りまっさかい」と、それが事実でもあって、小首を左右に否んでみせた。が、たちまち、
「阿呆らし。こっちは何とか算段つけて帰らんことには、年始の挨拶はおろか、正月飾りも降ろさんとあかんのや。死びとのあしたのことまで構うてられるかれ」
木久屋はこめかみを血ぶくれさせる剣幕で、極道屋まがいの啖呵を切った。あとの二人も尻馬に乗るように、土間つちを踏んで詰め寄った。
小鼻を膨らませて、おけいは紅みの差した顔を向けていたが、先ほどから除夜の鐘だけは相変わらず耳を打つ。これが百八つを告げ終わるまでに、埒を明けるよう、そくそくと胸に迫るのである。わざわざ夜更けてやってきた掛け取り達である。押し問答を繰り返しても、到底引き取る手合いではなかろう、万事休す、あすの葬儀は葬儀であすの成行きに任せ、もう掛け取りの謂うとおりにするほかなさそうであった。
やむなく祭壇に寄り、香典を取り上げたおけいは、ひとつ開けては、中味を畳に落としてならべ、隠すところのないことを三人に見せた。
それにしても、一枚、二枚、と香典袋を披く、そんなうそ寒い動作をするうち、
（こんな惨めな恰好が、世間にあるやろか）
とおけいは、おのれが立ち至った悲惨とも滑稽ともつかぬ状況を、いまさらつくづく思い知らされた。
これも身から出た錆び、と娘一人、父一人で養ってくれたその父を思って悔恨した。嘉久蔵と一緒になって此のかた訪ねずにいるが、大坂東郊の榎並の庄で、泥田を引っ掻くようにして暮す父である。熱に侵かされたように語気を強め、流れ者同然の男と世帯を持つと言い張って聞かぬ娘など、土地にしがみついて生きてきたような父親には、理解も我慢もならなかった。
――泣くのは、お前や。
と怒鳴る父親の声を振り切って家を飛び出し、「いつか、わかってもらえる」と自信を抱いてこの長屋でひとつがいの夫婦になった。結局は、その父親が案じたとおりの生活を送り、そして結末となり、いま、見るも愚かな場面を演じている。
そんな繰り言に暮れながら、泣く泣くならべた香典だったが、大晦日、長屋の連中が苦心の善意は、全部で八百文でしかなかった。おけいのへそくりの銀と合わせても、僅か四匁と八百文。銀貨は木久屋が用意の天秤で一々量ったのは、用意周到というほかなかった。
結局、無い袖は振れず、残額の返済は掛け取りたちに「追証」を書かされて、その後のおけいの稼ぎから叩き出していかざるを得なくなった。稲久に勤め出してからも、家に帰れば針仕事に精を出し、無論この間、単衣物一枚買わず、用心深く継ぎ当てした着物で終始して、人にも言えないが、湯文字一枚買わぬという切り詰め方で、ここ二年やってきた。
そんな倹約暮らしを続けて、おけい自身、多少驚きがあったが、一年を経ずに借金の返済は終わり、二年経ったいまは、二両あまりの蓄えさえ出来ていた。
二
姉さん被りにたすき掛けのおけいが、汚れた雑巾を落すと、梯子の下で待ち構える琴が受けて、桶の水に浸し、固絞りに絞って、おけいに放る。誰に言われたわけでもなかろうが、琴の返す雑巾はきりりと固くて、おけいにはそれが大層頼もしい。
「はーい、琴ちゃん、行くえ」
「へーい、姐さん」
天満菅原町の料亭稲久は、人目を惹く抹茶色の壁に割り竹を嵌めた塀を結いまわし、紅柄格子に石畳の玄関口は南の大川に向き、見越しの松を上げる西側の横塀は堀川運河に臨んで、二階座敷に上がれば、水に映える浜の土蔵や家棟を眼の下に、水郷大坂の大らかな眺めが愉しめるゆったりとした格の料理屋である。
その松の翠が覗く横塀に梯子を寄せて、高い場所はおけい、低い場所は琴がせっせと雑巾がけしているが、おけいにはくすんだ塀が瑞々しい竹の青さに甦えっていく作業も愉しく、自然と綻ぶ顔を再三琴に向けていた。
大晦日、稲久は板前から仲居、下足番、家うちの女中の、奉公人総がかりの大掃除で、玄関から数奇屋造りの店うち、露地庭、塀の内そと、と朝早くから賑やかな喚声が飛び交かって、文字通り埃の舞い立つ慌しさのうちに、店じゅう陽気な気分が息づいていた。
年の終わりの朝日もきらめくように注いで、梯子からおけいが見渡せば、往来のぼて振りも、堀川の通い船も、きょうばかりは何かしら快速に、師走の寒気を衝いてゆく。南に目を転じると、大川には、大俵に御幣を立て、日の丸扇で神飾りの、荷積みの三十石船が華やかにさざ波をきって進んでいる。
（ああ、この一年おおきに）
年の瀬の息吹を胸いっぱいに吸い込んで、おけいはそんな思いに膨らんでいる。
吹き曝しの作業で、顔も手足も冷えきっていたが、おけいは清々しい気分で梯子をくだると、塀際に置いていた下駄を履き、にこにこと、
「琴ちゃん、きょう一日働いたら、あしたは元旦、気張ってやろうな」
といった。こどものようにはしゃいでいる。
「そうでんな、今夜店じまいしたら、板場で晦日そば振舞うてくれはるそうだす」
住み込みの女中奉公に来て三月、十三歳の琴は、両手を前に組んで行儀よく言う。
その琴の手を見ると、雑巾絞りですっかりかじかんでしまって、指先のどれも蒼白く縮れ上がっている。おけいは袂を探り、渋紙で包んだみかんの皮を取り出した。
「これ、冷たい手にのせてこすったら、ほたほた血が通うてくれる」
「――ほたほた、でっか、おおきに。そしたらうちの手、ええ匂いもしますな、姐さん」
琴は、おけいを「ねえさん」と呼ぶ。ひとまわり上の二十五歳でも、稲久の女衆では一番若いおけいが、琴にとっては誰より話し易く、おけいも、この痩せて、目ばかりきらきらとさせているどこか頼りなげな少女が、ときに自分と重なって見えることもあって、じつの妹のように可愛がっている。
「せっかくのきれいな手。おなごの子やから、荒れんよう、しっかり手入れしとこな」
其処へ。だみ声で、
「なんやいな、あ、こんどはみかんの皮かぁ。なんとまぁごみのようなもんかて、取って置いたら、せいだい役に立つこっちゃ」
と、割って入ったのは、稲久で始終回りに金壷まなこをひからせている仲居で、ムネという片仮名なまえの大年増である。先刻から物影かどこかで二人の様子を覗き見し、いつちょっかいを入れてやろうかと窺っていたにちがいなかった。例の、蕪の葉の噂を広めている張本人であった。
「始末もそこまで目配りしたら、なかなか愛嬌とも言うてられへんで、なあ、おけいはん」
それだけ言うと、吻、とムネは顔を上げ、もともと人並み以上に高い背をさらにそびやかして、棒のような歩き方で玄関口へと向った。
おけいも琴も呆気に取られて、そのぎすぎす骨ばった後ろ姿を見送っていたが、やがて塀を曲がって消えると、互いの顔を見合わせくすりと笑った。棘のあるムネの物言いは、稲久の大方誰もが慣れっこになっていた。
「さっき井戸に水替えに行ったとき聞いたんだすけど、ムネさん、大広間でハタキかけながら傍の人に姐さんのこと言うてはりました。あないようけ蕪の漬けもん作って、振り売りでもする気かいな。板場まで巻き込んで、ひと財産目論んでるこっちゃ、言うて」
「ひと財産やなんて。――琴ちゃん、うち、ちょっとやり過ぎやろか。エラいしぶちんみたいに言われてる」
「ううん、ちっとも。みんな役に立つことでっしゃろ。うちも姐さん見習うて、良えとこ目ぇつけます」
と、琴はいわば妹分だから、おけいが弾むようなことを言ってくれたが、店うちではムネが、今しがた目にした光景を早速憎体に味付けして、誰れ彼れ構わず触れ回っているはずであった。
この二年間というもの、ムネという稲久の古株は、おけいについてあれこれ――夜なべに家で針仕事をしているらしいこと、寡婦ぐらしのこと、果てはほかの仲居より板場に行く回数が多いなど――別に後ろ指差されることもない事柄をいろいろ邪推して触れ回って、まったくおけいにとって天井の雨汚点のようにじんわりと鬱陶しい存在であった。
案の定、ムネは小皺の寄った口元をうずうずさせて、用もない板場の隅に立っていた。
板長の松吉が、まな板の端に小鉢を置き、卸し金で柚子をおろしていたが、その手元をじっと覗いて、
「松吉つぁん、きれいな手ぇやこと。それ柚子の所為かいな、おけいはんは、みかんの皮やがな」
「なんのこっちゃい」
松吉は面倒そうに口をゆがめたが、返答すればもうムネの思う壺である。
「さいな、さすがのあのコも商売もんには手を出しかねてるのやろ。蕪の葉はともかく、無心されても、柚子はあかんでぇ、なあ松吉つぁん」
「叱っ、こっちゃ納会の仕度で忙しいね。暇ばなしならどこぞの壁でも相手にしてくれ」
卸し金でまな板を鳴らし、野良猫でも追うように松吉には邪険にされた。が、庭にまわり、運良く、井戸端で濯ぎ仕事をしていた同僚を見つけて、言い足りなかった話しを早速披瀝した。
「そら、あんた、みかんの皮で手荒れの養生を思い付いたからには、もうじき板場の柚子のヘタをや、どっさり仕込んで、あてらに売ってまわるのは時間の問題やがな」
おけいが板場を利用して、ちゃっかり銭儲けを企んでいるというのである。ムネの口は井戸端だけでは収まらない。大掃除のさなか彼方此方相手を求め、新しい下足札に墨入れしている下足番、客室の床の間に掛け軸を設え回っている出入りの表具師まで掴まえて、おけいのあることないこと、みかんの皮をネタに吹聴しまわった。
その話題が稲久のはしばしに行き渡った頃、総がかりの大掃除も終わったが、午後には青物市場世話人、天満組町年寄り、砂糖仲買組、津軽藩蔵屋敷、町内旦那衆、と宴席の予約が目白押しである。仲居連はおけいの噂で、今年最後の勤めを景気づけるように、
――気丈なやもめの心張り倹約。
――蕪は小脇に、濡れ手にみかんや。
と面白おかしく囃し立て、祭禮に投じるように賑やかに仕事に取り掛かった。
おかげで、おけいはすっかり鬼のようなしっかり女にされてしまった。
昼の宴席も一段落し、玄関脇にある階段下の溜り部屋に、仲居連が茶など啜って休憩していたとき、敷居際で、手持ち無沙汰に座っていたおけいの袖を、不意に引く者がいた。お福という、三十がらみの同僚で、師走限りの臨時雇いの仲居であった。
お福は無言で、おけいの袖を取ったまま、廊下を回り、塗り膳や器を積み上げた薄暗い納戸部屋に、こそこそと人目を忍んで引っ張り込んだ。戸惑うおけいを前に、
「達ての頼み、聞いておくんなはれ」
と、顔を歪めた。この底冷えする日和に、お福は名の通り福々しい顔に、ぐっしょり玉のような汗を浮かべている。おけいは中途半端に頷きつつ、何事かと緊張した。
が、当人は小腰を屈め、しきりと頭を下げるばかりで、いっこう用件を明かさない。何か言おうとすると、大きく息を吸い、そしていったん止めて、洩れてくるのは吐く息ばかり、という具合である。おけいも次第に息苦しくなって、
「あのう、仕度にかからんと、夕方のお客さんもぼちぼち――」
と促してみたが、お福の喉からは、相変わらず、ハァーとかフーの息づかいしか出てこない。
「いま言い辛いのでしたら、いったん戻って今夜しまいがけに」
と業を煮やすと、
「こどものために銭が要りまんねん――」
と、ワッと吐き出すようにいった。おけいはその勢いに思わずのけぞったが、お福はお福で、腑抜けのようになって、積み上げた蝶足膳に背中を預け、ずるずるとその場にへたりこんでしまった。多少呆れながらも、おけいも成行きで前垂れをつけた腰をおろし、お福の前に膝を折った。それからは、お福は溢れるように事の次第を語り出した。
「病の子ぉを置いて、亭主が逐電してしもうたんだす」
聴けば亭主は鋸の目立て屋で、お福が勤めに出ているときも、家居の職であるため、粥を炊いたり、熱を診たり、長患いの息子の看病をじつに懸命にやっていた。だが、四日前の夜、お福が稲久から帰宅すると、亭主の姿はおろか、目立ての道具もやすり一本残さず消えて、子だけが蒲団から蒼い顔を出して眠りこけていた。
「まぁ。――」
とおけいは眉を曇らせた。このあたり人がいい。
お福の考えでは、齢四十五の亭主が、あれだけ不憫をかけていたわが子を置いて逐電してしまったということは、もはやいまの暮らしに精も魂も使い果たしてしまった証拠、再び家に帰ってくることはまずなかろうと、望みは捨ててかかっている。思い起こせば、この間亭主は仕事がめっきり減って、病人の薬代もままならないまま、お先真っ暗の思いを日々募らせていたのであろう。
さて、問題は亭主が逃げたその後である。子供の看病は等閑にできず、かといって、自分が仕事に出なければ暮らしが成り立たず、途方に暮れているここ三日。子供一人残して仕事に出た報いか、その病勢は益々深間に落ちている。なんとか医者に罹らせてやりたいが、以前の診察代も滞らせて、持ち金全部浚えても、どうしてもあと一両は要る、というのであった。
「ふぅ――」
と溜息を吐いたのはおけいである。
（一両か。――半年はかかる）
おけいには、これまでの二両貯めた月日が甦った。単衣も下駄も新調したためしもない。
その表情を、お福は丸い目を瞬かせて窺い、
「この正月の間、たったのひと月だけ貸してもらえたらエエんだす。あての実家の丹波からも、さいと焼き(正月十五日から十八日までの正月飾りの焼却行事)の時分には多分合力がおます。稲久のつとめは年内限りのきょう限りでっけど、正月四日からは平野町の網膳はんへ常雇いの仲居に出ます」
手堅いところを掻き口説くように訴えられて、断り文句を出せるはずもない。袖はしを口元に当て、お福が涎を拭っているときには、おけいは、諾、と首を縦に振っていた。
降って湧いた事態ながら、これ倹約おんなの噂が広がったがための、波紋のひとつなのだろう。だが、自分の一両で病気の子供一人助かると思えば、よろこびもある。まぁ、呉れてしまうのではなく、貸す金なのだ。
と、半ば納得はできたものの、それより気がかりは、自分自身のこころの持ち様である。今後こうした不測の持ちかけがたび重なれば、性根を据えてかかっているつもりの倹約の気構えも、なし崩しに崩れ、いつか雲散霧消してしまうのではなかろうか。
（此れ一回かぎりと思うても、つい甘い気になって）
と、信条がゆらぐ自身こそ不安である。
かねが敵のようなこの世の中で、その金のやりとりに毅然と自分は対処できるだろうか。
おけいは堆く納戸に積まれた器物の向うに、招き猫がほこりまみれで傾いているのを見た。赤い首紐に鈴を付け、左手を挙げている三毛猫であった。福運招来のこの縁起物は、右手を挙げていれば金運を、左手ならば客を招くという。どちらも商売人にはありがたい。が、差し当っておけいには、どうも自分の客は、金を持っていくほうに働くように思えてならなかった。
三
互いに少し小腰を屈めて裏木戸を潜り、提灯を片手に、
「ほな、どなたはんも良いお年を――」
と言い合いながら思いくの方角を取れば、稲久の大晦日の一日が終わり、一年の仕事がおわった。あすから正月三が日の間は、店もおけいも休みとなる。
河岸の遠灯りを映して、きらきらと波紋のゆれる大川を左肩に、おけいは夜道に軽やかな下駄の響きを立てた。だが、再三足元に目を落としては、歯のすり減った草臥れた下駄に、苦笑を禁じ得ない。元旦には天満宮へ参詣し、初店で桐台の日和下駄でも買おうと、秋ぐちから愉しみにしていた。
が、お福の相談に乗り、すぐさま家に戻って、押入れの底板をめくり、一両分を取り出すや、取って返して――と、急いでお福に貸し渡した以上は、買い物は次の機会に見送らざるを得なかった。それでも爪先から冷え上がる夜寒の道で、おけいの気分はあくまで軽い。
稲久のある菅原町から、おけいの樋之上町の裏長屋までは四町足らず。いまは奇怪な枝影を張るばかりだが、堀川岸の桜並木を目にすれば、ゆるい反りの太平橋の橋板が待ち受けて、二十歩ほどもサクサク歩いて渡り終えれば、そこからは小路くぐりに行くほどもなく裏長屋の路地木戸に迎えられる。そして、軋みのうるさいどぶ板を除けながら数歩も行くと、戸障子を嵌めた一人暮らしのわが家にたどり着く。
が、今夜のおけいは急がない。ことさら歩みをゆるめ、星を見上げたり、大川が運ぶ微かな潮の匂いを吸い込んだりで、ひとり一年の終わりを噛み締めていた。
二年前の大晦日は散々だった。亭主の霊前で掛け取り達に詰め寄られ、なけなしの葬儀費用を巻き上げられて、頬に涙の痕を止めたまま、知らぬ間に寝入ってしまったおけいだった。明けて元旦の嘉久蔵の葬儀は、長屋の連中の段取りで、あれよあれよという間に事が運ばれた。木戸に白張り提灯を掲げたまでは尋常だが、家守がどう調達したのか袈裟を纏い、ぽくぽくとにわか坊主が木魚を叩いて経を唱え、路地に勢揃いした長屋の連中が、順にしめやかに焼香して、何とかそれらしい体裁となった。
そのあとの酒食の振る舞いは、前夜の通夜酒同様、やはりおけいの手に負えない。それも見越して長屋の連中は、正月の取っておきに違いなかろうが、重箱に詰めた煮〆や思いくの瓢を持ち寄って、線香の燻るふた間に膝突き合わせ、「結構なそーれんでおました」など言いながら、慈姑をつついたり、湯呑で酒を受けて献酬したりした。喪主ながらもおけいは土間で立ち働きながら、しばしば目頭を抑えかねていた。むろん、故人への愛惜などではなく、隣人たちのやさしさにうたれたのである。
打って変わって、ほどなく迎える新年は洗われるようなめでたさである。
（あしたは挨拶に、蕪の漬け菜を持って。――）
ささやかな年賀だが、長屋の連中にそんなことでも出来るようになった、
借金も無くなり、手元にわずかの貯えも残って、ここ二年近く、ちくちくと世渡りに感じていた痛みはもうどこにもなかった。もうすぐ聞こえてくるはずの、除夜の鐘の音がおけいには待ち遠しかった。
太平橋にさしかかると、ひとひら、花びらのような雪が目の前に舞い、吸い込まれるように堀川の川面に消えた。見上げると、中ぞらに無数の雪が乱舞している。仰向いたその頬に、雪がかかった。思わず笑みがこぼれていた。こんな些細な出来事もおけいは無闇に嬉しかった。
毎日身を刻むようにして倹約を心掛けてきた。首尾よく一年の決算を終えた今夜ばかりは、「お疲れはん」と自分をねぎらってやりたかった。おけいにとって、大晦日はのれんを張るあきんど同様、泣くか笑うかの帳合い日なのであった。
といっても、今夜はこれから、お針の残り仕事を膝に、除夜の鐘にひとり耳を澄ますだけだったが。
家に帰り、行灯に火をともして茶漬けを啜っていると、
「居る？」
と、台所の引戸に、おろくの顔が覗いた。隣家の住人で八卦見の女房である。肉付きのいい面相が格子に野放図に広がっている。おけいが腰を浮かせると、
「いやさ、あんまり良え雪夜やさかい。おけいちゃんと年越しの雪見酒でも、と思うてな、ええかいな」
長屋の隣同士、嫌も応もない。おけいが返事をするよりも早く、おろくは戸障子を開けて土間に入ってきた。なるほど隣家の女房は、豪勢なことに、朱塗りの角樽を提げてにこにこしている。
「ま、上がって。けど良朴のおじさんは」
良朴とはおろくの亭主で、六十半ばを過ぎた当らぬ易者の名である。
「それがや、きょうはあんた、八卦が当ってな」
おろくは亭主の消息は措いて、片手を振り、さも珍事が出来したように言う。
「驚いたらあかん、相手はなんとあの大文字屋はんや」
と、続いておろくが鼻の穴を背けたときばかりは、おけいも「ほう」と感心した。
その名は轟いている。初代十右衛門以来、大坂三郷の町人を代表する一人で、当代は五代目大文字屋十右衛門。鴻池、住友とならぶ巨大両替商であり、大名さえ高麗橋にあるその店先に乗り物を止めて、機嫌伺いに立ち寄ると言われるほどの大あきんどである。
おろくは上がりこんで角樽ごと尻を落着けると、是非にも他人に話したいそのいきさつを、曰くありげに語りだした。
「さるお蔵屋敷からの帰り道やったそうや。天神さんのはたで、寒そうに腰掛けとるうっとこの顔がお気に召したのか、くだんのお人、筮を験してみる気ぃになりはったんや。めあては失せ物や」
「何失いはったん、大文字屋の大将」
「それがなんと――」
と、おろくは一々目を丸くさせ、景気づけする。余程の大事件なのである。
「ものはあんた、先刻訪ねてはったお蔵屋敷にて、誰ぞから受け取り賜いし借金の証文やがな。お大名の借金やで。大文字屋はん、なんぼほど貸しはったんかは存ぜねど、千両や二千両は下らんと踏んでるでぇ」
いい気分なのであろう、ところどころ芝居がかった言い回しをしながら、だが最後はいたってざっかけない。
「で、見立てはどないな具合に」
「はいな、八卦の象は坤と出た。裏鬼門や。でまぁ、じきに卦は出たもんの、うっとこのおっさん、右から左では八卦の値ぶちがないと思いよったんやろ。あたり見回したら、大晦日の天神さんの前や、注連縄の屋台がならんだある。そやさかい、西南(坤=未申)の方角に立って縄手を戻んなはれと宣いよった」
「縄手と言うたら、畦道かまっすぐな道」
「そうやがな。大文字屋はん、さぞお心当りがおありやったようで、腕組んで、ふーむ、と顎引いて、すぐ、その足で引っ返さはったがな」
とおろくは見てきたように言うので、おけいは可笑しかった。
「うっふ、――それで」
「なんと大枚五両や。在った、在った、と嬉っそうなお顔でな、天神さんに戻ってくるなり、うっとこの手に金包みを握らさはるがな。それだけやない、さすが天下の大文字屋はんや。半刻と経たんうちに、手代はんがこの角樽提げてやってきて、重ねての礼やがな」
言い終えておろくは、感に堪えぬように、うなずいている。
「で、そんな結構な大晦日に、おじさん置いといて、おろくさん」
「ええのか、というのやろ。おっさんはこの稼ぎ時やというのに、宵の口には商売切り上げて、阿呆らしもない、酒だけ家に置いて、金は懐にしてどこぞへふらっと散財に行きよった」
「まぁ、そんな大層もない大金持って。――みな使こうてしまわはるのかしら」
「まぁ、一両だけ置いて行きよった。あとは全部使い果たしてしまいよるやろ。ま、しゃないわな」
言うとおろくは角樽の栓を抜き、そこに筒の呑み口を仕込むと、これも礼品なのであろう、朱うるしの盃を取り出して、悠然と呑み出した。
「せっかくのお足やのに。五両もあったらどれほど暮せるか」
「言うこっちゃ。はっは、何しろお足や。凝っとはしとられへんわいな。あてらにとったら一両でも残りゃ、えら出来の歩留まりや。貧乏ぐらしが板に着いたある」
「残せるもんやったら、いずれ何かの備えにもなるのに」
豪快に笑い飛ばすおろくの貧乏哲学が、おけいには理解し難かった。
「なあ、おけいちゃん、貧乏も劫を経たら、それはそれで気楽なもんやねん。先々慮って貯め込も、なんて知恵回しても、かつて軌道に乗ったこともない。まぁ、我々には諦めが身ぃについてしもたるわ。いよいよの時は、堂島雀でもなんでも」
おろくは堂島の米会所でこぼれ落ちる差米、つまり検査の竹筒を差され、米俵からこぼれ落ちる筒落米を拾ってでも生活は出来るし、また覚悟は出来ているというのである。
といいながらも、早や酔いがまわってきたのか、おろくの目にじんと滲むものがあった。
（強がり言うて。――）
おけいは察するものがあった。と同時に、涙ぐむおろくを笑えないとおもった。自身、ここ二年は倹約を心の支えのように思って暮してきた。が、何かの拍子にその心張り棒がことんと外れて、元の木阿弥の、成行き任せの頼りない自分にいつまた逆戻りするかという不安が常にある。
とかく思ううち、目を伏せて、相変わらず毛羽の立った畳を見るとはなく眺めていた。
（あら、うちゆうたら）
ふと沈んでいる自分に気づき、埒もない、と気を取り直した。きょうはおろく、良朴夫婦にとって滅多とない好日なのだ。そしておけいにも嬉しい決算ができた大晦日であった。
おけいは傍らの、茶漬けに使った箱膳から湯呑を取り、
「うちも、よばれさして貰おかしら」
と差し出した。おろくは煥発入れず、
「早よ、呑みぃな」
と酒樽を傾け、畳に溢れ落ちるほどなみなみと注いだ。
ふたりは蕪の漬け菜と本泉寺から聞こえる除夜の鐘を肴に、しみじみと旨い酒を味わった。
「やもめで頑張るのもええけどな、器量良しのあんたのことや、その気になったら嫁に貰い手は掃いて捨てるほどあるやろうに」
だいぶ酔ったらしく、おろくは目の縁を紅くしてそんなことを言う。
「どやいな、もう懲り懲りか、おとこは」
「ええ、いまはその気には」
「手を出してみなはれ」
「――手ぇを」
「男に手ぇ出せ言うてんのと違う。手相をな、観てあぎょう、いうてるのん」
「筮立てるんやのうて」
「へえ、うちは何でも御座れでな。筮竹で喰えなんだら、いつでも手相観に鞍替えできまんの。先のことはわからんさかいな。あてもおっさんから伝授されてる」
先のことはわからぬ、と占い師らしからぬことを言ったおろくは、軆に似ない意外に小さな手を差し出して、一方の、これはしなやかな指で、均整のとれたおけいの白い手を取った。
「どう、うちのん」
おけいも覗き込んだ。くすぐったい思いをしながら、大人しく掌を預けているが、おろくは、ふむ、ふむ、と仔細に検めて、なかなか暇が要る。やっと口を開くと、
「こりゃあんた、最初のおとこでしくじるがな」
と自信たっぷりに下したから、途端におけいはがっかりした。それはもう十分わかっていた。白っぽい顔で、手を引っ込めようとすると、
「あっ、ちょっと待ちぃな。次の男はな」
「え？ ――つぎ」
おけいの力が抜けると、おろくはひそひそと笑い、
「気になるかやっぱり。そらそや、おけいちゃんも一人前のおなごやもんな」
「そんな、金輪際おとこはいや」
おけいは思わず声を上げ、しかし後悔し、頬を染め、もじもじとして、なかなか忙しい。そのおけいの手を軽く叩きながら、
「ま、やせ我慢もいつまで続くことやら。ともかく、いずれ、ええのん現われる。どや、うれしい見たてやろ」
「おろくさんいうたら」
からかわれている。おけいは手を引っ込めて、意味無く、てのひらを擦っていた。
乗せられたようだが、おけいの胸にぽっと熱い灯がともっている。
（こんなん困るのに）
嘉久蔵で懲りたおけいにとっては、甚だ厄介な心持である。火照ったおろくの顔をながめ、酒の残った膝元の湯呑をながめ、困惑しながら、にわかに点されてしまった熱いものを消そうとして、消しきれず、ひとり胸をさざ波立てて、持て余している。
そんなおけいのこころを知ってか知らずか、
「しかし、おとことの出会いはまだ先の話。おけいちゃん、あんたには自力開運という相が出たる。おとこは開運の足しにはならんようや。ただし、その運も拓けるまでにはまだあとひと山、ふた山。――どうもこの線が横槍になるなぁ」
とおろくはもう一度おけいの手を取って言った。
見れば、中指の下に奔る縦の線に、二、三本短切な横じわが過ぎっていた。
四
大年増のムネは、絶えず後輩仲居の微に入り細に入り、その金壷まなこをひからせている。とくに独り身で、こつこつと倹約の姿勢を見せるおけいが、恰好の標的であった。
正月四日、稲久の割竹の塀が、清新な朝霜を帯びておけいの初出を迎えたが、木戸に手をかけようとすると、背後が翳り、振り向けばムネである。早速、おけいのほうから、ことしもどうぞよろしゅうお頼もうします、とことさら気を使い、深々と新年の辞儀をすると、ムネは答礼もなしに、足許に不遠慮な目を注ぎ、
「おけいはん、えらい腰の低い挨拶で。低姿勢はあんたの持ち前だっかいな、それともちびた下駄の効用だっか」
と厭味をいった。新年早々これにはへこまされた。さらに、
「倹約もそこまで行くとなぁ。――」
とおっかぶせてきた。おけいはほのかに血潮の昇った顔色を伏せて、早々に木戸を潜ったが、中庭の石敷を踏みながら、何とも気分が落ち込んだ。正月というのに、履きどおしの下駄が気になっていたところだ。余程つま先を返して、今からでも新しいのを買いに走ろうかとも思ったが、お福の顔が浮かんで、あやうく思いとどまった。
（来月まで、がまんく）
お福に貸した一両の返済を受けるまでは、堪えるべきだった。それが、厳しい風当たりに甘んじる倹約の心懸けというものであった。それにしても、正月初日からこんな不愉快な思いをさせるムネが、つくづく恨めしかった。
そのムネがいそくと雪駄をパタつかせ、他所よそしく顔を背けておけいの先を越して行ったが、おけいは立ち止まり、ふと自分の掌を眺めていた。
（ムネさんのあのイケズも横槍のひとつやろうか）
おろくの占いを憶いだしたのである。
「どないしはったんだす、姐さん」
琴が駆け寄り、伸びをして同じようにおけいの掌を覗き込んだ。
「ううん、何でもない」
慌てて手を下ろしたが、琴は屈託もない、
「姐さんの手、白うて、柔らこうて、細うてきれい。うちの手もほら、姐さんのみかんの皮で」
とぱっと両掌を開いて見せた。嬉しそうに目を細めている。
「ほんま、琴ちゃんの掌、つやつやしてる。うちよりはるかにきれい」
とおけいは調子を合わせてやった。そしてあらためて、
「新年おめでとうさん、琴ちゃん。ことしもお世話かけますよって、よろしゅう頼みます」
今年初めての顔合わせを寿いだ。だが、めでたい笑顔を消して、琴は態度を急に改めて、意外な挨拶を返してきた。
「姐さん、長い間お世話になりました。どうぞ、息災で」
固い顔で言い、頭を下げた。おけいは訝しげに眉を寄せた。
「長いあいだ、って、まだみ月あまりやないの。実家に帰るのん」
「いいえ、桑名へ行くんだす。旅籠屋に奉公替えだす」
おけいは耳を疑った。
（――桑名のはたご）
暗澹と、その地名をつぶやいた。
桑名は人も知る東海道伊勢の宿駅で、東海道一の宿場である。名物桑名の焼き蛤でつとに有名だが、それはいい。桑名でもう一つ有名なものといえば、飯盛り、おじゃれ、あるいは留め女などと、まるで塗りたくったお化けのように呼ばれる旅籠おんなである。宿場の両側にずらりとならぶ茶屋、旅籠の軒先に立って、口騒がしく旅びとの袖を引き、強引に引っ張り込んだ上は、給仕もすれば、からだも売る。
琴がまったく唐突に、わざわざそんな場所に奉公替えするというのは、言うまでもない。金のために身売りされてしまったのである。
おけいは琴の腕を掴んで植え込みの側に寄り、南天の小枝に帯の結び目を擦らせなが
ら、訊いた。
「どういう場所か、わかってんの、琴ちゃん」
まだ十三歳でしかない琴だが、一年も炊ぎ奉公したあかつきは、飯盛りおんなとして
売色ばたらきに出されるのは目に見えていた。
「へい、こことは違うてます。手付もようけおました。ここ一年お父うはんの漁の上がりがさっぱりでしてん。うちが桑名に行ったら、お父うはん、お母あはん、弟や妹が塩梅よういきまっさかい、明後日にはお暇を戴いて、よろこんで向うへ参じます」
琴の父親は泉州助松の漁師だと聞いている。その一家の窮状を救うために売色を覚悟したというのである。しかも、あえて、「よろこんで」という。
「明後日やなんて、あんまり急やないの」
おけいは胸が詰まり、そのあまり、詰るような言葉しか吐けなかった。琴はこれ以上何も話したくないとばかりに、ぺこりと頭を下げると、ついと背を向け、一目散おけいの元を駆け出した。四阿と梅林の間の石敷きを、首うなだれて母屋の方に走っていく。
「琴ちゃん――」
後ろ姿に呼びかけたが、琴は振り返らなかった。
――手付もようけおました。
琴のあどけない言い方が、かえっておけいの耳に悲しく残った。金高と引き換えにされる身を、よろこんで投じるという。誰が身売りを喜べるだろう。琴は笑顔で寄ってきたが、辛い思いではちきれそうになっていたにちがいなかった。稲久で一番親しい自分を見つけて、出立前にせめて親身な気分に浸りたかったのであろうか。
あの種の年季は普通二十七歳までと聞いている。桑名に行ってしまえば、琴は少なくとも十四年間は家族との交わりを断たれてしまう。また、年季が明けたところで、一たび苦界に身を沈めた娘を、堅気の家族がすんなり受け容れるであろうか。だとすれば、琴は天涯孤独という運命まで背負ったことになる。
あれこれ思うと益々胸が塞がれて、ムネの毒気などは、すっかり消し飛んでいたおけいであった。無論、下駄の新調どころではなかった。
稲久の冬枯れの庭に、いましがたの琴のすがたが残映になって消えなかった。おけいには椿や楓、梅の木も蹲の水も、みな冷えびえと霜ついて、悲しみに鎮まっているように見えた。
板場と客間を渡す廊下を忙しく往復しながら、おけいの頭から琴の姿が離れない。
新年初日の混雑も酣の夕刻、廊下を行くおけいは、四段に積んだ会席料理の膳を抱えながら、つい琴の身の上に思いを馳せていた。中庭に面した一室に至ると、
「ごめんやす。お運びいたしました」
おけいは敷居ぎわで一端膳を降ろし、障子に手をかけ、声をかけた。そぞろ考え事をしながらも、毎度寸分違わぬ慣れた作業である。
障子を開けると、紋付袴の歴々が、披いた軸物の絵を真ん中に、和やかに談笑している。おけいは膝行して黙々と配膳にかかったが、床の間を背にした客の前に何気なく膳を据えかけ、はっとした。
半ば巻き取られた軸物が、客の膝の前で流れている。慌てて腕を引いたが、勢い余って徳利が倒れ、膳の縁に首を預けて、とくとくと客の袖と畳に盛大に中身をこぼし出した。おけいは驚き、すぐ徳利を立て、次いで、胸懐の懐紙を全部抜き取って、客の袖にあてがった。と同時に、その手をすぐ前垂れの紐に持っていき、腰からもぎ取るようにして解くや、ばさりと畳に被せて、酒を吸わせた。咄嗟の間に、これだけのことをやった。幸い、軸物に被害はなかった。
あとは客の袖を懐紙で押さえながら、「とんだ粗相で、申し訳もござりません」と何度も謝った。が、この場の客たちは、苦言を鳴らすどころか、一様に、おけいの機転の利いた処置に喚声を上げ、手を叩いて誉めそやした。
（いえ、そんな。――うかうか考え事してただけですよって）
おけいは陽気に賑わう客の意外な反応に戸惑い、跪いたままにこやかな旦那衆の顔を見回していた。
おけいは気づかないが、彼等はみなそれぞれ大店のあるじであったり、大勢のひとを使う立場にいたりする。つまりは、おけいの前垂れを使うという機智と、躊躇の無い振る舞いは、彼等の使用人の模範にしたいような臨機応変の処置だったのであり、ある種の羨望と感銘を自ずと与えたのである。
いずれにせよ、自身かつてない失敗をこれほど讃えられるのは、なんとも面映い心地だったが、まずはほっと胸を撫で下ろしたおけいである。
この出来事の一刻ほどのち、おけいは女将の其乃に呼ばれ、玄関脇にある帳場の奥に出向いた。其乃は先代からの暖簾を継いだ一人娘のお譲様育ちだが、働きの鈍い婿養子とはさっさと離縁し、女手ひとつで稲久を大坂で指折りの料亭に育て上げたしっかり者である。
女将は帳場格子のさらに向こう側にある四畳半で、瀬戸火鉢を脇に、端然と座っていた。
（さっきの件。――）
と思えば、客は意外な反応を示してくれたが、やはり、小言のひとつも残して帰り、女将にはきっと叱責されるものとてっきり覚悟したおけいだが、膝を着くと、
「おけいはん、いまな、羽織を濡らしはった平野屋の旦那はんな、ええ仲居さんや、あんな胸のすく働きぶりは滅多にない。正月からええもん見た、とお言いやして。お帰りのとき、えらい喜んではりましたえ」
形のいい口許を綻ばせ、細面の優美な顔を傾けて言った。女将もまた、誉めるのである。
「いいえ、もとは手前の粗相から起きたことですよって」
おけいは赤面した顔を俯け、正直にいった。
「怪我の功名でおますか。――構しまへん、わてらの商いは、しくじったときにどう振舞うて、どうお客にエエ気持ちになってもらうかやもの。これからもその調子でやっとくれやす」
其乃は火鉢の灰を掻きながら、満足げにほほ笑んだ。
大方の客も退いて、稲久に吻っと静寂の時刻が訪れた。廊下には、中庭からしきりと届く水音だけが聴こえる。おけいは庭下駄に足を入れ、そっと音のほうに近づいた。案の定、住み込み女中の、一日の仕上げの仕事をする琴がいた。井戸端にしゃがみ、時々立ち上がっては釣瓶を繰り、桶に水を空けて、洗濯に余念が無い。この寒い夜、裾短かの着物から出た琴の素足は濡れそぼって、凍えるように冷たいはずだが。
「――――」
とその名を、せかせかと動いている琴の背に呼びかけようとしたが、気後れがして声にならなかった。何もしてやれない自分が、どんな言葉をかけてやれるだろう。おけいは一輪、早咲きの赤い花をつけた椿の木陰に肩を落として佇み、梢ごしに琴を見ていた。石灯籠のあかりが、うずくまる琴を不思議なほどくっきり浮び上がらせていた。
（琴ちゃん、かんにん。うちは悲しんでるばっかりで、何の役にも立ってあげられへん）
瞳に潤んだひかりを点じ、おけいは椿の枝はしを握り締めていた。
明けて正月五日。店に着いたおけいが、いつものように仲居溜りに回ると、女将が意外な人物と玄関で話し込んでいる。框に腰かけ、肥った半身をよじっているのは、忘れもしない、二年前、嘉久蔵の死体が横たわる番所で、いとも淡白に事を落着させた、あの定町廻りの同心河内可久之助である。二年経って、いっそう肉付きのいい広やかな顔付きになっている。
河内は、おや、とおけいに気づいて、二重顎を上げた。おけいを覚えている。
「あんた、ここに勤めてかいな。さよか、ふうむ」
と同心は何度も顎を埋めて、おけいには多少迷惑ながら、旧知であることを明かしてしまった。稲久には外聞を憚り、亭主は酔い潰れた上の土座ヱ門ではなく、普請場の事故で亡くなった、としてあった。
「その節は、どうも厄介をおかけしまして」
おけいは仕方なく挨拶した。二人の間柄を問いたげに、女将が河内に首を曲げている。
「や、なんの、酔っ払いはくせが悪い。あんな橋の上で若いおなごをからかいよって、じき道を踏み外しよる。いや、大事のうて幸甚、幸甚」
河内は嘉久蔵の橋からの転落を、おけいが酔漢に因縁をつけられ、急場を救ったような場面にして、巧みに事件をすり替えている。奉公先で何気なく事件関係者に声をかけるなどは、河内は相変わらず大雑把ではあるが、苦労人ではあるようだ。女将は得心して、頷いている。ところが、同心はおけいを解放せず、手招きした。首を傾げながら、おけいが女将の背後に寄ると、
「あらましは女将さんに伝えたが、師走までお福という仲居がおったな。あのおなご、きのう御用の身ぃになった。じつはあれは名うての詐欺師でな、市中の料理屋を転々としながら寸借詐欺を重ねとった。町方の調べでは、いまのところ百両にのぼる。で、あんた、――大事な虎の子、お福にいかれたのとちゃうか」
おけいは一時に腰が萎えて、へたへたとその場に崩れそうになった。
「――やっぱりそうか」
河内はおもむろに腰の矢立を抜いた。そして、女将の横に力なく座ったおけいに、被害額と経緯を尋ねたが、細かい字を短冊に認め終えると、
「へっ、亭主の逐電、子ぉの病やと言いくさったか」
と吐き捨て、あとは世間ばなしでもするように、色めいた話柄に及んだ。
「あら亭主も子ぉもないひとりもんやがな。もっとも、他所の亭主を引っかけては、派手に遊んでおったらしいが。しかし、男の目ぇちゅうようなもんは分からんな、あの面相で男出入りは色里の売れっ妓なみやがな。夜な夜な若いのんや年のいったんを長屋に引き入れては、おかしな声をあげとったそうや。でまぁ、その連中に貢いどったのかどうか、それはこれからのお調べ次第やが、何しろ金遣いも粗うてな、家捜ししたところが、出て来たんはわずか十匁や。気の毒ながら、あんたの一両は戻らんな」
という事情なら金はあきらめざるを得ないであろう、おけいはこけしのように一つ表情でいたが、それにしてもひと目でおけいを被害者だとわかったのは、同心の勘なのかどうか。小首をひねって腑に落ちぬ様子のおけいに、河内は、
「ああ、あんたはあの手合いにはお誂え向きの型や。おとなしゅうて、のべつしっかりせなと身構えとってな。喩えるなら、若木のヒノキみたいなもんかいな。すっくと立ってはいるが、丁、と打ったら、たちまち香りが洩れる」
「へえ、香り。――――って、どんな」
「胸いっぱいに押し包んだ香りや、少々甘ったるい香りやが。はっはっはっ」
河内の説くところは、何やら寺子屋師匠の説く心学の道話めいて、処世の知恵がたっぷりと籠もっているようではあったが、おけいにはよくわからなかった。
玄関先でのこれらのやり取りが、ムネの金壷まなこに止まらぬはずはなかった。客足がひと掃けした昼下がり、琴に餞別を渡そうと、風呂敷包みを手に母屋へ向ったおけいだったが、廊下の擦れ違いざま、ムネがにんまりと立ち塞がって、
「一両の損を取り戻そうと思うたら、新手の始末は三つも四つも考え付かんと追いつかへんな、おけいはん。というて、店の物に手ぇ付けるてな、魔ぁが差さんようにな」
と、粘っこく釘を刺した。ほどほどに合槌を打っておいたおけいだが、廊下にはそのムネと入れ替わるように、琴がやってきて、
「姐さん、ムネさんは二両盗られはったんだす」
と声を潜めた。え、と思わず聴き直したおけいだが、餞別を渡すつもりもある、ともかく琴を傍らの空き部屋に招じ入れた。
「おえはんが――」
と、琴は早速話のつづきを話したがった。おえはんとは、奥向きの用もこなす琴が、女将を通常の商家と同じく、お家はん、と呼んでそれを訛っての言い方である。
「お店のひとを、奥に一人一人呼んでおえはん訊いていかはったんだす。姐さん以外にようけ居はりましたで、お福さんにお金盗られはったひと。おいまさん、おこんさん、ほてからムネさんだすけど、二両盗られた言いはったさかい、ムネさんが誰より損しはったんだす」
「あのムネさんが、気の毒に」
おけいは言った。正直なところ、聊か愉快ではあった。が、慎んだ。
「けど、二両やなんて嘘だす。ほんまは三百文だす。あて、こそっと聞いてたもんやから、この部屋だす、ここでひそひそばなしして、ムネさんお福さんに証文書かさはったんだす。ほしたら、六十文も利子取るんだっか言うて、お福さんが不服そうに言いはって、三百文もの大金や、きっちりしとかななぁ、言うてムネさん。出てきたとき、お福さんふくれたはりました」
ぷっ、と吹き出しかけたおけいだが、おそらくムネはおけいに妙な対抗意識を燃やして、二両、と大きく鯖を読んだに違いなかった。
「変ってはりますな、ムネさんて」
と肩をすくめる琴におけいは微笑したが、あらためて琴を覗き込んで、
「これ、お餞別の代わり。受け取って、琴ちゃん」
と風呂敷包みを解いて、差し出した。
「きれい。――」
琴は目を輝かした。琴の膝の前にならんだのは、鳶色小紋の鼻緒を結った、真新しい赤い塗りの下駄である。
「けど、こんなん、あて。――姐さん損しはったのに」
ふと琴の顔が曇り、押し返そうとした。おけいはその手を包んで、いった。
「ううん、うちはこんなことしか出来へんの。恥かしいけど、どうぞ受け取って。そうやないと、うち――」
言ううち、夕べから抑えていた感情がこみ上げて、おけいはついに堪えきれなくなった。
「琴ちゃんが辛い思いで桑名に行くのに、甲斐性なしのうちは何もしてあげられへんの。かんにんして。その代わり、遠くからでも毎日く琴ちゃんのこと、思うてる」
思いの丈を告げながら、溢れるものがおけいの頬を伝っていた。
「うちも姐さんのこと」
琴もそれ以上は言葉にならずに俯いた。やがて、その膝に載せた餞別に、ぽとぽとと、大粒の雫が滴り落ちていた。
五
同じ日の夕刻、稲久の店先に駕籠が止まった。
「ここだす――」と先棒舁きが威勢良く垂れを跳ね上げると、塗りの雪駄に白足袋が土を踏んで、ゆらり、といかにも鷹揚な身ごなしで、初老の男が降り立った。縞の羽織は略服ながら、軒燈のあかりを受けて、すぐにそれとわかる上質の絹物の艶を放っている。
男は恰幅のある体躯をしばしその場にとどめ、心持ち顎を上げて稲久の玄関構えを眺めている。差し渡し三間の大きな水色のれんに石畳、両翼には紅殻格子に犬矢来の、風雅で堂々とした店構えである。やがて向き直り、懐から凝った意匠彫りの印傳の大財布を取り出すと、さっくりとした手つきで駕籠賃を払ったが、大いに酒手を上乗せしてあるらしく、先棒は両手に受けて、ニッと溶けるような笑顔になった。
男が暖簾を潜ると、式台の脇で屈んでいた下足番が、いらっしゃいまし、と見上げ、あっ、と声を呑んだ。かつて芝居茶屋の下足番もしていた久七である。見覚えがある。急いで引っ込むと、稲久は灰神楽の舞うような騒ぎとなった。
女将が前身頃の端を押さえく飛ぶようにやって来て、
「ようこそご光来いただきました。大文字屋さんをお迎え出来るなど、もう夢のような心地で、何と申し上げてよいやら、新年から身に余る幸せでござります」
と、あたふたと喜びいっぱいというせりふをならべて、その男、大坂三郷屈指の名士、大文字屋十右衛門を迎えた。
「前触れも無う、お騒がせすることでごわります。一人やが、小座敷にでも上がらせてもらえますかいな」
大文字屋がそう応じた時には、女将の背後には、ムネたち古参の仲居連が居ならんで、この高名な人物をひと目見ようと、どれも見栄えのしない愛想笑いを連ねていた。
式台から板敷きを跨いだ賓客に、女将はこれ以上ない満面の笑顔である。
「ささ、ご案内します。丁度、寒梅をご覧いたただけるお部屋がござりますよって」
「それは痛み入ります。いや、他でもない、平野屋さんからお聞きしましてな。こちらさんにはなかなか気の利く仲居さんが居やはるとか。ひま人の気まぐれでごわりましてな、ちょっとその噂の人を見よとて、辻駕籠を拾うてやって来たという次第で」
と聞いて、大文字屋に好奇の目を浴びせていた仲居たちは、一様に固唾を呑んだ。女将はすぐには思い浮かばぬようであったが、
「は、平野屋さんから。あっ、それなら、おけい、という仲居でござります」
とその名を口にした。
大文字屋からの不意の名指しにどぎまぎしながらも、おけいは磨いていた塗りの膳に顔を映して髪を直し、急いで挨拶に罷り出た。
「おけいでござります」
敷居際で膝をついて薄く襖を開けると、床柱を背負い庭を眺めていた大文字屋は、目を転じ、
「えらい呼びつけるようなまねで、大儀かけます」
と半白の頭を下げて、しごく遜った応答である。意外なその謙態ずくに驚きながら、おけいは首すじが軋むようなぎこちない会釈をした。
「早速やが、料理をお頼みしましょ。何しろ一見でござりますさかい、すべておけいさん、あんたはんにお任せします。おすすめは何でごわすかいな」
さすが大あきんどである。寛いだ空気を醸しながら、時間を無駄にしない。
すぐさま注文に移って、おけいは喜んだ。余事ならぬ料理の見繕いなら自信を持って応対できる。座敷に進んだおけいは、茶席のように居住まいを正して座る大文字屋を前に、
では、――と落着いて、しかし晴れやかな口調で、少々肥り肉の大文字屋が好みそうで、しかも白髪の目立つ当の客の年配を配慮した、軽重織り交ぜた季節感のある料理をいくつかそらで挙げていった。
この間おけいは、折り半紙に書連ねた持参の品書きは覗き込んだりせず、一品ずつその中味を説明し、が、細かくは言及せず、客が好き勝手に質問したくなるような適度な隙をおいている。果然、大文字屋は「それは熱いかな」、「辛いかな」と二、三、愉快そうに尋ねたが、内容よりも、やり取りが愉しいという趣であった。
おけいの睨んだとおり、大文字屋は滅法健啖家であった。順に料理を運ぶ都度、前の膳部はきれいに平らげられて、板場もその捗の良さには雀躍りし、大層その腕のふるい甲斐を満喫した。
最後、おけいが茶を運ぶと、
「ひさびさに料理の醍醐味を味わいました。何もかも結構でごわりました」
とひときわ血色の良くなった顔を綻ばせた。おけいは泳ぐように上体を折った。
やがて座敷を立った高名な客は、廊下で畏まるおけいに、
「評判どおりやった、あんたなかなかのものや」
と言って、さりげなくおけいの前に、紙包みを置いた。祝儀であろう。慌てて口を吐いたおけいの礼もそこそこに、大文字屋はさっさと廊下を渡って行った。
玄関で其乃をはじめ、稲久の板場から仲居、むろんおけいも含め、殆ど全員に見送られて大文字屋が駕籠に乗り込むと、おけいは引き揚げる同僚の背中を見届け、ひとり階段の影に身を入れた。そこで初めて紙包みを披き、目にしたのは、なんと五両もの大金である。おけいは茫然としてしまった。
（こんな大金いただける値打ち、一体うちに）
としばらく目を瞬かせていたが、大晦日、隣家の良朴が、まぐれにしても数千両という証文の行方を占って的中ったとき、同じ大文字屋からの祝儀がやはり五両だった。
（あれだけの身代のおひとには、祝儀の相場は五両と決ってるのかしら）
と思い直したりして、とかくに合点を着けようとしていたが、やはり嬉しさは蔽えない。懐深く蔵い込むと、胸のあたりがほくほくとして、世間がぱっと開けたような心持ちがした。ともかく、一両損をした矢先に、五両もの大金が転がり込んで、おけいの家の鴨居には、〆て六両が貯まる勘定だった。
ふっ、と思わず微笑して薄暗がりから出た途端、
「大文字屋はんのご指名で、さぞ鼻高々なこっちゃ。これであては店一番の仲居やなんて自惚れなはんな。考えて見ぃや、なまじの店にあんな一流筋が気安う立ち寄るか。おけいはん、こんにちのことはな、あてらが苦労して評判取ってきたさかいや、肝に銘じや」
ムネは機会を窺っていたらしい。腕組みし、舌なめずりして、猫が鼠をなぶるように業腹を言った。
「へえ、それはもう。みな、ムネさんらのおかげで――」
おけいが苦しい返事をしていると、のれんが翻り、見知った顔がつかつかと式台に進んできた。気配にムネは振り返って、溢れるような笑顔をつくった。
「ああ、空心町の親方だっかいな。ご機嫌はんで、こんな遅くに見回りでっか」
「いや、きょうは河内の旦那に頼まれてな、お福の一件や。いま裏で女将から被害の金高たんねて来たとこや」
うすい眉がずるそうに撥ね上がって、ぎょっと剥き出したような目つきの小柄なこの中年男は、手先の安五郎である。呼び名の由来の空心町で荒もん屋をやっているが、そっちの商売は女房に任せ、自身は御用の権威を後ろ盾に、天満界隈の大戸、中戸を回って睨みを利かせている。稲久にも「なんぞ変ったことあらへんか」と、月に二度ほどもやってきて、時おり女将に袖の下を忍ばせてもらっている。
「こっちゃに回ってきたんはな、ムネはん、あんたに用や」
安五郎はシャッと羽織の裾をまくって框に腰かけた。ムネは一瞬たじろいだようだが、ちらりとおけいを一瞥すると、胸元に手を当て、襟首を突き出すような仕種をしてから、框に寄った。おけいは階段の影に身をずらし、様子を見守った。
「こっちの調べではな、お福はあんたから三百文借りたというとる。六十文の利子乗せて証文まで書かされたから、嘘ではございません、ときっぱり言いよった。ところが、けさ女将があんたに訊ねたところでは、二両貸したというこっちゃ。どういうこっちゃいな。勘違いというなら、取り消しはいまのうちやが。――わしが奉行所に報告したあとで、やっぱりお福の言うたとおり、てな具合になったら、これは上を欺く重罪になるが」
踵をトントンと搗きながら、例の極端な目つきである。ムネは震え上がった。
「親方、勘違い、あての記憶違いでおました。いや、ついこないだ親類のもんに二両融通したばっかりで、ごっちゃになってしまいましたんや」
「ほうか、ごっちゃにな。――こら、オバはん、わいを舐めとったら承知せんど。何が親類じゃ、証文まで取ってるしっかりもんがちょぼくれやがって」
「――とまぁ、勇んでもな」
安五郎は一旦荒げた声を急に和らげ、にやにやと顎を擦りだした。ずいぶん擦り続けて、皮膚が赤ばんだ頃、すくんでいたムネはようやく気づいて懐中を探り、おずおずと銭をつまんだ。やっと銭を握らされて、「ま、口が滑ったんやろ」と安五郎は破顔したが、掌を覗いて、途端に眉をしかめ、
「丁稚の使いやあらへんど、これぽち、帰りにうどんの一杯も喰うたらしまいやないか。わいは確か二両と聞いた」
「ひっ、二、二両要りまんのか」とムネはのけぞった。
「当り前や、聞いたんわその額や。わいの耳はわりとひつこいねん。二両になるまで、こびりつくどぉ」
安五郎の高声はもはや憚りもない。じろりと相手を睨み上げて、同心の手先より荒もん屋より、この種の要求こそ本業なのであろう。
「そ、そんな殺生な」
ムネは財布を見下ろしたり相手を盗み見たりで、狼狽しきったこの様子には、階段の下で息を潜めているおけいも、
（ムネさん、可哀相に。二年前のうちもおろおろと）
とかつて掛取り連中の吊し上げにあっていた自身の姿が彷彿として、さすがに憐れになった。
「当座、堪忍しとくがな。見回りのときはあんたの顔もちゃんと拝ましてもらうで」
安五郎は尻を上げたが、ムネは腰が抜けたように板敷きにへたり込んでいる。
ムネは二両に達するまで、あの十手持ちに締め上げられ続けるのであろう。おけいは溜息を吐くような思いで、
（こんな成行き、夢にも思わなんだやろうに）
と同情した。余計な見得を張った報い、と言ってしまえばそれまでだが、おけいは自身に舞い込んだ大文字屋の祝儀と思い合わせ、金の出入りというものの唐突さに首を傾げてしまった。
六
琴が桑名に発ってしまう朝になった。
おけいはせめて荷造りでも手伝おうと、しらじら明けには家を出、ひっそりとした板塀の通りをうかぬ顔で抜け、触れるとひんやりとした稲久の裏木戸を押して、琴の寝起きする女中部屋にやって来た。母屋の台所に隣接した殺風景な三畳間である。
琴はすでに起きて、畳んだ蒲団の横でちんまり座っていた。裾の短い、接ぎの当ったいつもの単衣ではなく、小ざっぱりとした木綿の黄格子を着て、すでに浅葱色の手甲と脚伴まで着けた旅装束である。
「荷物は？」と訊くと、「そこに」と、敷居の隅を指差した。菅笠と草鞋が二足、それに瓦灯の脇に風呂敷包みが一つ、ぽつんと置いてある。おけいが切なくなるような、綿入れ一枚くるんだほどの小さな風呂敷包みである。眺めていると、
「下駄はここに」
と、琴は筥枕ほどのもうひと回り小ぶりな風呂敷包みを取って、にこりとした。おけいが餞別代りに贈った朱塗りの下駄であろう。大事そうにひざに載せ、おけいはちょっと胸が詰まった。
「髪、結い直してあげる」
琴の襟足に後れ毛がほつれていた。琴はこっくりと頷いた。せめてもの世話の種が見つかって、おけいはいそいそと井戸端に回った。
盥に水を張って仕度を整えると、島田に結い止めた自身の櫛を抜き、琴のうしろにまわったおけいだが、いったん大よそに結われた琴の桃割れを解いて、あとは余念なく手を動かした。琴も黙って、おけいの成すままにしていた。
結い終わると琴は、
「姐さん、ほんまに長いことおせわになりました」
向き直って手をついた。ほんの三つきあまりの付き合いに過ぎないが、琴の別れの挨拶に、「長いこと」という文句は不可欠らしかった。だがおけいにとっても、この短い期間に、もはや肉親のような情が育まれている。
「もう時刻？」
泣きそうな表情で訊いていた。
「へえ、口入れ屋はんが迎えに来はるんやのうて、早めに出て、あてから順慶町の店に寄らんとあきまへんねん。そこから男衆はんと一緒に、大和を通って、伊賀ごえで桑名に入ります」
「遠いな――」
溜息が出た。これから琴の赴く道中を思えば、互いを置く山野の隔たりが如実に浮かび、おけいには無性に淋しかった。
菅笠を手に、風呂敷包みを背中に斜め掛けして、琴は稲久の裏木戸を出て行った。
菅原町の往還は、半刻もすれば、両側に軒を連ねる小料理屋、うどん屋、茶店、そして蒸子窓の商家が、床几や大垂れを出して活気を帯びる。が、いまはまだどこからか鳥の声も聴こえるのどかな目覚めどきである。旅装束の琴には無関心に、戸口を掃く年寄や天秤棒の蜆売り、炭俵を積んだ大八車の車力が、わずかな人影を占めて、寒そうな白い息を吐いている。
おけいは稲久の塀ぎわに佇んで、俯き加減にゆく琴の小さな背中を見送っていた。薄ぐもりの冬空の下、いかにも侘しい琴の旅立であった。途中まで、とも思ったが、泣き顔を見せたくなかった。気づかれぬよう距離を置いて、遠くからそっと見送るつもりでいた。
四つ辻を曲がった琴の姿を追うと、川波の立つ大川河岸に沿って、もうあと半町ほどで天神橋である。おけいは角材を立てかけた材木屋の軒下に立ち止まっていた。
（つまづきそうな歩き方して）
琴はとことこと先を急いで、まるで一心不乱の足取りである。さむぐと突っ立つ石の常夜灯の脇を通り過ぎ、天神橋の勾配に足をかけても歩調は変らない。辛い生活が待ち受けているというのに、おけいには堪らないすがたであった。
風が大川をさざ波立てている。琴に吹き曝しの試練でも与えるように、天神橋は鯨の背のような勾配を見せて対岸まで長々と架かっている。橋の中ほどに琴が差しかかったときは、おけいはたもとの擬宝珠に寄り、思い詰めたように、目を凝らして見詰めていた。
やがて、
「達者で居てな、琴ちゃん」
と小さく呼びかけた。これ限りと思うと、胸に澱のような、溶けぬものが蟠った。次第に定かでなくなる姿を追っていると、
（もうこれぎりでええの、行かせてしもうてええの――）
自身を詰る声が脳裡に囁きかけてきた。が、すぐまたこだまのように聴こえてきたのは、
（うちに、なにがして上げられるもんでもないのに）
と非力を嗤うつぶやき声だった。目を落とすと、小石を埋めた固い路面を、履き古した下駄が踏みしめている。
（あの時とおんなじ下駄。――）
ふと、亭主に締め出され、露天神や天満宮の境内で泣いていた三年前の自身の姿がよぎった。ずっと同じ下駄で頑張り通している自分は、生まれ変わったはずではなかったろうか。
おけいは顔を上げた。いつの間にか、橋板を踏んでいた。
よろよろと二、三歩行った。それから急に急ぎ足になった。何かに手繰り寄せられるように、夢中で駆けた。橋板が鳴った。
追い縋る足音に、琴は訝しげに振り向いた。思いがけず、息を弾ませ、呼びかけるおけいがいた。
「一諸に口入れ屋さんに行こ。姐さんが話着けたげる」
おけいは微笑を浮かべていた。琴は不思議な調べでも聴くように首を傾げた。
「はなし、って」
「琴ちゃんが桑名に行かんで済むはなし」
琴は目を円くし、激しく首を振った。
「あてとこのお父うはん、もう代銀受け取ってます。あてが行かなんだら、泉州の家に口入れ屋はんが乗り込んで、お父うはんもお母あはんも弟も妹も皆えらい目に遭わされます」
「お父うはんらが大事やの、自分は売られても」
おけいは悲しげに声を落とした。
「そうだす。あてをこの世に生んでくれて、琴ゆう、きれいな名ぁも付けてくれました。ほんで、丈夫なからだに育ててくれました」
「ちっこいからだやないの」
「ちっこうても、丈夫だす。なんぼでも働けます」
琴は唇を引き結んで、目にいっぱい力を込めておけいを見上げた。
「行ったらあかん、行かさへん。お金のことは、泉州に害が及ばんよう、姐さんが何とか算段する」
おけいは振り絞るように、だが断固言った。そして、
「いよいよの時は――」
と、思わず言い及んだ口を閉ざした。そのときは自分が身代わりを買って出るかどうか、そこまではおけいも断言しかねたが、ひょっとするとそんな展開も覚悟しなければならないであろう。ともかく無我夢中で駆け出してきただけなのである。
「琴ちゃん」
と興奮気味に首を震わせている琴に、落着いた眼差しを向けた。
「もう桑名に行くことは考えんと、うちと一緒に大坂で暮らそ。琴ちゃんもそのほうが良えやろ」
琴はおけいを凝っと見上げている。
「大事にせなあかんのは親兄弟だけとちがうやろ。自分のこともだいじにせな、みなが真実にしあわせになられへんやろ」
琴は粗い息づかいで、依然硬い表情を向けていた。が、やがて、恐る恐るうなづき、そして顔を上げると、
「あて行きとない。ここに居りたい、姐さんと一緒に大坂で暮したい」
かぶりを振り、抑えに抑えていた胸のうちをいっきに吐き出した。
「あて、桑名になんか、――桑名になんか、行きとない」
寒風に晒され霜焼けのようになった赤い頬をゆがめ、琴は涙ながらに訴えた。
止めどもなく流れる涙を、しゃくり上げ、掻い撲る幼いすがたに、おけいは駆け出してきたことが誤りでなかった、とあらためて噛み締めた。
「もう泣かんでもええの。きょうから、うちの家で琴ちゃんとふたり暮し、うち嬉しい。うちの得意のお針も教えてあげる。琴ちゃんはこれからは自分の将来も考えんの。――さ、そうと決まったら、順慶町？ 口入れ屋さんまで連れて行って。先方さんにはぜんぶうちが話すさかい、琴ちゃんはどっか近くで待ってて貰う」
おけいは琴の手を取った。互いの手はすっかり冷えきっていたが、歩むにつれ、温かいものが沸々と指先を通い合った。
橋の南詰には船宿がならんで、障子を開け放った二階に、旅客たちが荷物を纏い、出立の仕度にかかっている様子が見える。河ぎしを見れば、八軒家の船着場には伏見上りの三十石船が横付けされて、間もなく一番船の船出時刻のようである。
不安を抱きながらも、対岸までの残り三分の一、朝のけしきをすがすがしく胸にきざんで、ふたりは天神橋を渡った。
七
明日香屋、という屋号を書いた大提灯を提げて、口入れ屋は二間間口で格子造りの店構えである。無論、提灯の灯はまだ点ってはいない。
おけいは安堂寺橋のはす向かいで見つけた茶店に琴を置き、甘酒を注文すると、自身はそのまま少し北に下って順慶町通りに入り、琴に教わったとおりに、南側の六軒目にあるという屋号入りの提灯を目指してここまでやってきた。
ひと呼吸し、からからと格子戸を開けると、三和土の隅で、草鞋を結んでいた男がじろりとおけいを一瞥した。
軽く男に会釈すると、おけいは三和土の真ん中に立ったまま、ゆっくりとあたりを見回した。土間には、壁に道中合羽と笠が三つ掛かり、杉板を渡した棚に、くすんだ葛篭がならんでいる。正面の店の間は板敷きで、神棚、帳場格子のほかは、行灯と火鉢が見当たるぐらいの、ごく簡単な設えである。
無言のこの女客には、上がり縁に腰を下ろし、ぶらぶら足を揺すって莨を喫んでいた男も、帳場格子に囲まれて何やら書き付けていた男も、そろって注意深い視線を注いだ。
「えーと、どちらさんやったか――」
帳場格子の男が、言った。神棚の下で濃い眉があがり、切れ長の鋭い眼がひかっている。
（ふむ、めっさとお目にかかれん上玉や。これなら、まず二百両は下らんか）
苦みばしった三十がらみのこの男は、おけいをひと目見て、順慶町を西に真っ直ぐ下った得意すじの高級遊廓、――江戸の吉原、京の島原とならぶ新町の廓で、置屋の誰兵衛、誰右衛門に相当な値を吹っかけても、即座に売れると早くも値踏みしていた。
当のおけいにとっては、店の空気はどこかしら険悪で、帳場の男も他の二人も、刺すような目つきはとてもふつうのあきんどのようではなく、同じ口入れ稼業でも、娼妓を売り買いする人買い渡世の筋の悪さが、彼等の鯨油を塗ったような、底光りのする面相に表われていると見ていた。おけいは口を開いた。
「きょう、桑名に連れていかはる子ぉのことで」
「――というと」
帳場の男は傍らの銭箱に肘を付いた。
「あの子のことはなかったことにしとくれやす」
「なんやと」
目を剥いたのは、三和土にうずくまっていた男である。おけいは一瞥し、顔色も変えなかった。琴を守るという以外、金も背景も、ばかりか、身売り証文を反古にする正当な理由さえ持たずに、おのれの覚悟ひとつでおけいはここに来た。その気魄だけを頼りに渡り合うつもりで、端から喧嘩ごしに出た。
上がり縁の男も、ぱんと煙管の雁首を鳴らして立ち上がり、袖をまくっておけいに近づいた。おけいは黙殺し、帳場格子の男に視線を向け続けている。帳場のその男は、
「なかったことにせいとは、ちかごろ聞かん言い種や。姐さん、わいはここのあるじで明日香屋文七という者やが、伊達や酔狂で店構えてるのとちがう。我から言うのも口幅ったいが、順慶町の明日香屋と言やぁ、盆暮れにはほうぼうから山ほど挨拶の届く歴とした稼業の家や。わいの得心の行くよう筋の通った話をして貰おやないか」
「どないしたらあの子が桑名に行かんで済むか、――それだけ教えとくれやす」
「汝ぁ、人虚仮にさらすンかい」
腕まくりが耳元で吠えた。帳場の文七は、まぁ、という手つきで制し、
「姐さん、そら簡単なことやぜ。代金の二十五両、耳揃えて、ここに置いて貰たらエエ」
と、銭箱の上を軽く人差し指の背で叩いた。金高を聞いておけいは内心どきりとしたが、
「証文見せとくれやす。それが歴としたあきんどのやり方ですやろ」
と要求した。文七は、ふふん、と鼻を鳴らし、面倒そうに背後の小箪笥に体を向けると、一番下の抽斗を開けて、
「さ、これが証文やでぇ」
と一枚の紙片を抛り投げた。紙はふぅわりと舞って、ひらひらと上り、板敷きの縁まで泳いで落下した。おけいはすいと框に寄って紙片を拾い、腰を下ろすと、両手に乗せ仔細に検めた。と、
「十八両としか書かれてまへん。明日香屋さんの思い違いですやろか、それとも、抜け抜けと水増しするのが、こちらさんの商いですやろか」
「へっ、人聞きの悪い。あんた、なんぞ心得違いしてるのとちゃうか。十八両の証文、それは紛れもない、――買値や。つまりな、仕入れ値は斯様でございましたちゅうこっちゃ。口入れ屋が破談のたんび仕入れ値で払い戻ししとったら、骨折損のくたびれ儲けで、手前の屋台骨にひびが入るがな。あとの七両はええか、あきんどが当然受け取る手数料であり損料や。――わかったかい、いったん身売りしたもんを取り戻そうと思たらな、一度は地獄の釜に手ぇ突っ込まんとあかんのや」
最後は人買いの本性か、文七は凄みの利いた文句を決めた。が、
「よう聞こえました。そやけど、大層な損料、この証文の端から端まで眺めて、その上余計なことだしたけど裏側まで覗かせて貰うても、どこにも書いてませんな。しるしもない損料、埒外のあきないだすけど――明日香屋さんの言い分、それだけですやろか」
おけいは中々やる。不敵に言ってのけた。あとは框に腰掛けたまま、平然と神棚の紙垂に目を漂わせていた。こちらの無体は承知の上だが、踏ん張りどころが見つかって、俄然自信が湧いていた。
文七はむっと唇をゆがめていたが、すぐ冷静になり、
「言い分も何も、手前は算盤さえ合やぁ、結構。――どや、姐さん、払えるのかい。即刻、現金積んで貰わんかぎり、どこぞに隠れとる玉引っ張り出して、すぐにも桑名に出立せんと、若いもんが草鞋固めて痺れ切らしとるのやぜ」
と、いまは胡座をかいて、おけいを睨み上げている三和土の男を顎で指した。
「あの子は絶対渡さしまへん」
おけいは文七に目を据えて、きっぱりといった。
「おい、姐さん、ええ加減道理のない頬げた叩いとったら、身のためにならんぜ」
「地獄の釜で煮ようが、焼こうが、どうぞお気の済むように、と言いたいとこですけど、うちを痛めても算盤勘定は合いませんやろ」
おけいは面憎い平然さで文七を眺めた。自分でも驚くほど落着いている。そして、
「明日香屋さん、損しとうなかったら、互いに条件、擦り合わせしようやおませんか」
これも自身思いも寄らない伝法な口調で持ち掛けていた。
おけいはその後も強腰で談判したが、明日香屋は簡単には乗ってこず、男衆らの恫喝も繰り返された。が、怯まず、終始条件云々の一点ばりで、ついに疲れを見せた明日香屋に、
「わかった、二十両や。ただし、元帳は汚されん、期日は今月十一日のきっしょ限りや」
と半分匙を投げて叫ばせるところまで漕ぎつけた。おけいは内心雀躍りした。
ともかく明日香屋は正月十一日の「きっしょ」という、商家がこの一年間使用する帳面の端に錐で穴を開け、きゅっきゅっと紐で綴じていく帳綴じ日を、琴の買い戻し期限とした。
あえてそんな日を択んで、明日香屋は女衒も正業という見得を張ったのか、期限までたった五日しかなかったが、いずれにせよここまでの条件を呑ませたのは、幸運とでも思うしかなかった。
もうこれ以上はおけいにはどうすることもできない。書付を交わし終えると、疲労がどっとおけいに押し寄せ、今にも昏みそうな身を辛うじて支え、紙のように血の気のない顔色で框から立ち上がっていた。
その背に文七の声が被った。
「おけいさんよ、書付にあるように、期限に間に合わなんだら、日延べの損金二両付けて琴は桑名行きや。それから、くどいようやがもういっぺん言うとくと、それを避ける場合にゃ元値の倍、四十両の借金があんたにかかる。さて、そのときどうやって返済するか、そのときゃ、ゆっくりと相談に乗るぜ」
暗におけいの身売りを仄めかして、これこそ明日香屋が譲歩した理由であり、真の狙いなのであろう。
八
手持ちの貯えは、六両。あとの十四両は人に借りるという手立てしか思い付かない。おけいは明日香屋からの帰途、琴を長屋の隣人のおろくに預け、その足で稲久に戻り、女将の其乃に会った。借金の申し入れである。
「貸せまへんなぁ。そら琴ちゃんの身の上を斟酌したら、気の毒でなりまへん。そやと言うて、ここで用立てしてあの子を留めても、またいつなんどき、実家で身売りに出すや知れしません。親のすることを、他人のあてらが止められるものやおませんやろ。ああいう親もとは、いつも不如意でおまっさかい、このたびだけで収まるものやおまへんえ。つまるところが、それが琴ちゃんの一生随いて回る運命なん。世間にはごまんとあるはなし。いっときの憐れみはな、かえってあの子に酷ですえ、よう料簡しなはれや、おけいはん」
おけいは言い含められ、止む無く引き退がった。が、女将の考えはとても納得できるものではなかった。
（女将さんの言わはるさだめって、人を見捨てるための方便や。うちは琴ちゃんが自分の運命を拓けるよう、手伝うだけ）
母屋と店をつなぐ廊下を渡りながら、胸中、繰り返し反論していた。が、五日の間に金策しなければと思うと、理屈をひねっているゆとりなどはなかった。借金の申し出を断られた女将には、
「やるだけはやらせとくれやす。この五日間、勝手しますが、お店の勤めは休ませておくれやす」
と時間だけは貰っておいた。
おけいは板場に向った。寒鰤の目の下二尺はありそうな盛り上がったのを、まな板に乗せ、下ろしにかかっていた松吉の側に寄って、事情を打ち明けた。松吉は包丁を置くと、実直そうな角張った顔の、白髪まじりで植わっている眉を下げ、
「こらまた……。いや、時期が悪い。松の内に嬶が産気づきよって、急に子ぉが産まれてしもうてな。産婆のかかりやら何やらで、恥かしいんやが、けさがた他店で板前やってる弟に銭借りたばっかりやねん。それに、わしもおふくの餓鬼にいかれてしもた口で」
頭を掻き、すまなそうにからだを縮めた。おけいは肩を落としたが、気を取り直し、松吉の家の慶事には、おめでとうさん、と取りあえずの笑顔で祝いを述べた。
これという借金相手が思いつかぬまま、稲久の拭き込まれた廊下を渡っているおけいだが、俯いていると、毎朝、この板張りと睨めっこするようにして雑巾がけしていた琴の姿が浮かんで、気持ちだけが徒らに焦った。そんなおけいを押しのけるようにして、せわしげに足袋をすべらせ、仲居たちが膳を運んでいく。そんなすがたを見送り、溜息が出た。客の応対に大わららの稲久では、もはや頼む相手は見つかりそうもなかった。
おけいは裏木戸を潜り、おもてに出た。空は鉛色に曇って、相変わらず正月の冷たい風が吹いていた。琴を託したとき、長屋のおろくに訊いてみたが、キタの木幡町に借家人相手の小口の金貸しがいるという。「やめといたほうが良えがな」とおろくは腕組みしつつ、それでも住まいは教えてくれた。そこに行こうとしている。
太平橋を渡り、堀川沿いをずっと北に下って、練塀を結いまわした侍屋敷を目印に、西に折れる。そこを二町入ると北木幡町だが、通りに面して天水桶を玄関脇に置いた二階建てに、くだんの金貸しの老婆がひとりで暮しているという。名をおいかという。おけいは迷うこともなしに、四半刻(三十分)ほどで着いた。
格子戸をあけると、小暗い走り庭が目に映ったが、取っ付きの座敷でひとり、粉を吹いたような妙な顔色の白さで、老婆が火鉢に手をかざしてすわっている。おいかであろう。おけいが用向きを言うと、即座に背後を振り返り、小箪笥から紙と筆記具を取り出して、
「五百文でんな、利子は十日で一割。ここに名ぁと居所を書きなはれ」
ずいと押し出した。あとはおけいには目もくれず、横を向いて手を炙っている。
おけいは利子の高さに驚きつつも、借りたい額は十四両の旨言うと、おいかはどこ吹く風と火箸を動かしている。ならばと、
「小口しか相談に乗ってやおませんなら、ほんの五両で結構ですよって、お願いできませんか」
すきま風がすうすうと鳴る戸口を背に、頼み入った。が、そっぽを向いたままのおいかは、火鉢を相手にひと言も発しない。
「そうだすか。五両が無理でしたら、三両でも構しませんけど」
重ねて申し入れた。が、おいかはおけいの存在さえ忘れた風情で、今度は炭入を取って、ゆるくと炭を継いでいる。
「あの、一両でも――」
消え入るような声で、押して頼んでみた。が、おいかの気色は変わらない。
「銀三十匁でも……」
おいかの返答はない。
いっそ五百文でも借りてしまおうかとちらりと思ったが、ひとつ溜息を吐いて、結局はやめた。
「いっぺん去んで、もうちょっと考えてみます」
あいまいに唇許を綻ばせ、辞去の挨拶をすると、
「そうだっか、へえ、またなんぞのときに寄っとくなはれ」
とやっと口を開いたおいかは、皺だらけの笑顔を向けて、しごく愛想が良かった。
（大したお婆さん）
うかぬ姿が、川面に広がる波紋に揺らいでいる。金貸しの老婆にあっさりといなされて、足取りも重く、おけいは堀川沿いを南に戻っている。流れの底に棹を差し、ゆったりと船足を進めていく薪炭船を眺めながら、次は質屋ののれんを潜ろうかと、ぼんやり考えていた。
嘉久蔵と所帯を持っていた頃は、きもの、指物、鏡台、茛入れなど、これと目に付いたものなら無雑作に風呂敷に包み、月に二度は質屋のかび臭い帳場を訪れた、いわばご常連さんのひとりだった。
堀川沿いを行きながら、ふた間の住まいの隅から隅を思い浮かべ、質草になりそうなものはと、どんより雨雲が降りたような冴えぬ頭で考えた。
鍋、釜、水瓶がまず浮かんだが、衣類ならば綿入れの半纏が質入れできそうで、ほかのきものは継ぎ接ぎだらけで、それを出せば襦袢一枚で暮すしかなく、母親の形見の結城縞は出すわけにいかず、別に心当たりを巡らすと、嘉久蔵の大工道具に気がついたが、あれは、嘉久蔵の死後半年も経ってから居酒屋の掛け取りに襲われて、道具箱ごと持っていかれたことを思い出して打ち消し、なおあれこれと心細い家財の中から挙げて、ようく幾つか候補を絞って行った。
挙げ句、鍋、釜、鏡台、……、と順に並べて、金額を弾いてみると、せいぜい八百文も貸してくれるか、という情けない高が浮き彫りになった。
笑いたくなるぐらいの貧乏所帯である。寒風に頬を撫でられながら、つくづく自身の不甲斐なさが身に沁みた。川岸の掛け茶屋で一服するひま人や、談笑しながらゆく通行人までが恨めしかった。
だが、十四両、なんとかつくる必要があった。
（――そうや、元請はんに）
思い当たったのは、仕立て屋のお政である。
夜なべに長らく仕立て物をやっている。その元請である仕立て屋のお政なら、おけいのような下請けを二、三十人も抱えて中々の繁盛ぶりであり、五両や十両、右から左に融通が利きそうであった。おけいは踵を返し、急ぎ足で川沿いをまた北に引き返した。
お政の家は、堀川にかかる太平橋から六ツ目の橋で、上流側の最初にかかる寺町橋の東詰である。通過していく橋の数をかぞえ、急ぎ足でその寺町橋を渡りかけて、ふとおけいは後戻りした。途中左手に、蛭子の宮の石鳥居が目に入っていた。商売繁盛の神様である。
鳥居が堀川を向いて両足を踏ん張っている。蛭子の宮、正しくは堀川戎神社は、開基は欽明朝（五三九～五七一年）というぐらいの古社で、止美連吉雄が蛭子神のお告げを聞いて以来という、神韻縹渺とした古い由緒を刻んでいるが、何より、南の今宮戎が「今宮のえべっさん」なら、こちらは「堀川のえべっさん」と親しまれ、両社とも正月九日から十一日の「十日戎」の祭りは、商いの隆盛、金運招来を祈願して空前の賑わいを見せ、商人ならずとも士農工商大坂四民に等しくめでたい福の神なのである。
おけいは鳥居をくぐって、唐破風屋根の本殿に進み、赤い縞木綿の財布から鐚銭数枚を取って、賽銭箱に投げ入れた。普段、験を担ぐ性分でもなかったが、
――十四両何とか都合付けさせておくれやす。
と、この際神妙に柏手を拍って、「借銭成就」を祈願した。ぱん、ぱんと人気のない境内に、乾いた音が事の他に響くと、虫の良い話で、ご利益間違いなしという気分になった。
無事参拝を終えて寺町橋を渡ると、右手には土塀がぬらくと続いて、にわかに線香のにおいに包まれた。塀はどれもずらりとならぶ寺のもので、二十代のおけいには多少陰気臭い通りだが、すらすらと歩いて二つ目の、妙福寺というめでたい寺号を掲げた門前で足を止めた。ここの住職の嫁が、仕立て屋のお政に他ならなかった。
普段のように、庭を通って体面したお政は、尖った口の両端が上って、目も吊りぎみで、ちょっと狐をおもわせるようなしっかり女の容貌だが、人は悪くない。庫裏の縁側でいつもどおり茶と供物のお下がりの菓子を進めて、にこやかにおけいを迎えた。
が、用件が借金の申込と判ると、にわかに顔を引き締めて理由を問い、おけいが包まず明かすと、
「おけいさんえらい、ほんまにえらいわ。なみの人間ができることやあらへん」
と大きく頷いて同調してくれたから、おけいは喜色を浮かべ、
「お針の仕事も今まで以上に励んで、月々きちんと返済さして貰います」
と懇ろに言った。が、お政はふッと蝋燭の灯を吹き消すように、
「ふむ、それはあかん」
ときたから、おけいはあ然とした。
「安易だすな。人から借金して自分がええ顔するやなんて。善行というものは、自分の力で贖うもんだす。そうでないなら、ただの身の程知らずえ。他人をあてにして、突拍子もない、と云われても仕方おまへんえ。人にお節介焼くなら、ぐるりを巻き込んだらあきまへん。このあていが相談に乗れるというなら精々内職を回すこっちゃろな。お針の仕事はなんぼでも頼んだげるよって、どないか自分でやっとうみ」
「そんなん間ぁに合わしまへん」
おけいは泣きそうな顔でいった。
「勇み足だしたな」
お政の人生哲学には抗しようもなさそうであった。おけいが奈落の底に突き落とされた気分で縁側から腰を上げると、
「仕立物、持って去ぬ？」
お政は言ったから、
「またよろしゅうお頼もうします」
おけいは力なく首を振っていた。
（お寺さんの前に、神さんに頼んだのが具合悪かったのやろか）
寺町橋を再度渡り終え、戎神社の鳥居を見上げて、憾んだ。
堀川岸の枝ばかりの桜の木にまじり、柳が一本、川面に枝垂れた枝先をひらひらとそよがせている。いかにもうらぶれた心細い光景だった。日が傾いている。
当てのない足どりは樋之上の裏長屋に向っていたが、琴にどんな顔が合わせられようか。
天神橋で、「姐さんが何とか算段する」と言い切ったのは、けさなのである。それを思い起こしてはつい俯いて、はっと首を起こすと、憑かれたように、
（十四両、十四両、何とかせんと）
と繰り返していた。
いわくありげな川端のおけいを、細髷にきちんと襟ぐりを整えた縞のきものという、手代ふうの男が、絡みつくような好色な目つきで眺めている。男はぐずぐずと雪駄を引きずって、わざとおけいと肩を触れ合わせて通り過ぎた。おけいの肩先に男の体温が残った。
おけいは男を振り返った。男も振り返って見ていた。おけいは慌てて向き直り、南に足を急がせた。
（うちは何ていうことを）
一瞬でも、夜鷹まがいの考えに取憑かれた自身に愕然とした。これではふらふらと血迷い、盗み働きにまで及びそうで、どうにも尋常でない己に惧れをなした。
この寒ぞらの下、汗ばんだ額を伏せ、おけいは薄暮れの堀川端を虚ろに歩き続けた。きょうの金策が軒並み徒労に終わり、これという妙案も思いつかぬままに、打ちのめされたおけいの帰路であった。足袋の爪先がひどく汚れていた。ふと目を上げてあたりを見回し、
（まだ暗うになるまで間があるやないの）
暮れ方とはいえ、夜の闇にはまだ早かった。沿道の茶店も道に床几をならべているし、小間物屋も軒先に紅や白粉をならべ、川辺の常夜灯も暗い口を開けたまま立っている。ものみなとっぷりと夜闇に包まれるまでに、まだ打つ手がありそうで、おけいは懸命に考えをめぐらした。
が、所詮、空回りである。底の抜けた柄杓で水を汲むように、方策に行き着く前に、考え自体とどまらない。
（琴ちゃん、堪忍）
川下に近づくにつれ、時の経過が冷たくのしかかり、気ばかり焦って、おけいの胸は遣瀬なく喘いだ。
樋之上の長屋に帰り着いて、隣家に寄ると、おろくは七輪の前に屈んで、火吹き竹を咥えた頬を膨らませ、土鍋を炊く火を煽っている。その傍らで、琴は笊を前に、豌豆の莢剥きに余念なさそうだが、脚伴を付けて、旅装のままでいる。
「まだ、そんな窮屈な身装でおんの」
不時の出立を覚悟されているようで、おけいには辛い。琴は恥かしそうに俯いた。
助け舟を出すように、おろくは七輪から目を離し、
「九郎判官が都落ちにはあらねど、思いも寄らざる身の置きどころ。――馴れん場所で落着かんわなぁ、琴ちゃん」
と浄瑠璃もどきで云って琴に微笑みかけ、そしておけいに、
「お月さんが出る頃には、着替える気になるわいな。ま、琴ちゃんもこうやって蓴菜に手っ伝うてくれてんね、おけいちゃん、晩はうちで食べや。うっとこの人は遅いさかい、今夜はおんな三人、静か御膳や」
と洒落まで言って、この場を収めた。
「おおきに、おろくさん」
おけいは頭を下げた。吻っとするおろくの心配りであった。
それはともかくも、出来不出来に拘らず、おけいはきょうの首尾を、琴には正直に報せておく必要があると思った。
「琴ちゃん、ちょっと」
とおけいは一旦、琴を隣の自宅に連れ帰り、畳の上に座らせた。それから押入れを開け、夜具を押しのけて底板をめくり、一文銭や天保銭、丁銀、豆板銀など、これが全財産の雑多な貨幣を取り出すと、琴の前にならべた。
「全部で六両。あと十四両だけ算段したら、大丈夫」
一四両だけ、とは言ったものだが、他に財布や台所の笊の中にも、合わせて千二、三百文程度の銭があるにはある。が、それらは無論毎日の暮らしに要るし、明日香屋に持参する銀から小判への両替手数料としても確保しておかなければならない。きょうの不首尾も含めいろいろの事情は措いて、おけいは銭を前に、云、と自信ありげに顎を引いた。
精一杯の虚勢だが、こうして現銀を見せることで、何とか琴を安心させたいし、また自身そうすることで、破れかぶれの知恵も湧くようにおもった。
「あと四日もおますさかいきっと味膳う行きますな」
無理にも心細さは押し隠しているのだろうが、琴も頷いた。
「きっと。――」
きっぱり言い切ると、おけいは再び闘志らしきものが湧いてきた。
九
「女将さん、是非ともお許し願います」
翌日、おけいは再び女将の前で手をついた。開店時間までは、大抵女将がそこで趣味の生け花に興じる母屋の八畳間である。縁側の向うの蹲や置石を配した露地庭が、朝霜を溶かしてしっとりと息づいている。
おけいの語る申し出に、途中から女将は生け花の鋏を措き、水盤からひざをずらし、端座して聞き入った。
「手当ては出来高の歩合にして貰うて、宴席の予約を外回りで取らしてほしいのです」
とおけいは言うのである。
呉服屋が店で客待ちするだけでなく、紺風呂敷に包んだ反物を背負ってほうぼうの得意筋を回る、というはなしは世間にざらだが、料理屋がおもてを回って宴席を売り歩く、というのはあまり聞かない方策である。だからこそ女将は俄然、興味を覚えた。
昨夜、根もないカラ元気のまま、琴と床をならべたおけいだが、枕に頭をのせた途端、ふっと浮かんだ一手だった。同時に、おけいのまぶたに、戎大黒が小槌を持って微笑んでいるかのような、あの大文字屋十右衛門の温顔が浮かんでいた。暗い天井を仰ぎながら、
（もう借金算段はやめる）
と決め、横になったまま、あれこれこの思い付きについて考えた。宴席の種類を松竹梅に分け、各等級ごとの目玉となる料理を頭に描き、さらに客まかせの日取りばかりでなく、節分会などの行事日から、大安、先勝の吉日などの節目、季節料理の賞味会、梅見の宴などの特別な催事で積極的に売り込める宴など、いくつも想を得た。そして土間の格子窓が白み始める頃には、まどろみもせず疲れているはずの身に、新鮮な壮気が満ちていた。
（女将さんは、必ず、云、と言わはる）
考えがまとまり、琴の寝顔を振り返ったときには、そう決めてかかっていた。のれんを張って待ちの姿勢の料理屋に、呉服屋顔負けの出商いの風を持ち込む――何が何でも女将をその気にさせる、という決心で申し出たのである。
「面白い。――おけいはん、やってみなはれ」
気負い立っていたおけいが拍子抜けするほど、女将はすんなりと承知した。
いとも簡単に話しが進んで、やや機先を挫かれたような思いもあるが、期限の迫るおけいに時は置けなかった。早速、筆硯と更の帳面を借り、縷々説いたとおりの、つまりはきのう寝床で考えたままの宴席事如くを、その場ですらすらと書き綴った。書き上げて女将に差し出すと、
「結構だす、よう出来ました。いつから始めるのえ」
女将はいよいよその気である。
「只今からやらせて頂きます。ついては、予約を取ったその都度、宴席料の五分を歩合として頂戴しとうおます、それも日だての即金でお頼もうします」
ためらわずに云った。女将は凝っとおけい瞠め、宜しい、そうしましょ、と頷いたが、
「おけいはんの気持ちは判りますけど、お客には焦りを見せたらあきまへんえ」
「心得ました」
おけいは明快に応じた。女将はこの提案が、琴の身代金返済策として出ていることを予め察して、釘を刺したのだが、無論それを、おけいはわかっている。
肩口を掛け継ぎした海老茶の木綿縞では、堂々と大文字屋の敷居は跨げない。おけいはいったん自宅に戻って、押入れを開け、母親の形見の結城縞を取り出すと、鏡台の前に立って、久々に袖を通した。
着替えの際中、壁ひとつ隔てた隣家の話し声は筒抜けで、おろくと、きょうも昼間は身を寄せている琴が、ふたりで米搗きの際中らしく、小気味良い搗き音をたてながら、
――五分搗きがよろしおっしゃろか。
――八分搗きにしとき、やっぱり美味しいがな。
などと他愛もないやり取りを交わしている。ひと安心して聴いていると、一段声を落したおろくが、
「もうな、ずっとおばちゃんやおけいちゃんと一緒に居りや」
「へえ、こない良うしてもろて。そやけど、あて、これ以上姐さんに苦労かけとうおまへんねん、期限が来たらやっぱり桑名に行きます」
おけいは琴の不安が身につまされたが、仕上げの帯を結びながら、
（たった十四両やないの、四日の間にきっとつくってみせるから）
鏡台に映る自身にまなじりを決していた。
宴席帳を片手に、矢立を帯に挟んで仕度を完了すると、おけいはそっと戸を閉めて長屋を後にした。
樋之上の裏長屋から大川沿いを行き、難波橋の長路を渡ると、北浜である。河岸を東に行くほどに、相場師相手の料理茶屋が目立った。金相場や俵物の取引会所を控えて、北浜はおけいには金持ちの巣窟のような町であり、金貨銀貨のさんざめきが聴こえるような気がする。
南に折れて、今橋通りに一歩踏み入れると、間口はゆうに二、三十間、軒柱も黒ずんだ、風格のある商家がずらりとならぶ。おけいは思わず唾を呑みこんだ。ここが商いの中心地『船場』の、そのまた中心地である。
大文字屋十右衛門、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛、鴻池善右衛門の名だたる大商人、また二丁南の高麗橋通りには三井三郎左衛門など、あたりは巨大両替商たちがのれんを張り、ふだんのおけいには別世界の、近寄り難い空気が充満している。
その両替商たちののれんは、不案内のおけいを戸惑わせることに、大だなも中どころも一様に、紺無地の麻が三尺の長さで垂れ下がっているだけで、屋号も記号も染めていない。この無愛想さは、どれを潜ればそこが大文字屋なのか、全く出鼻の挫かれる思いであった。
軒なみのれんを潜ってまわるような暇はなかった。が、折りよく、ちりんくと町飛脚の通る風鈴が鳴って、
「あの、大文字屋さんはどこですやろ」
と急いで問いかけた。飛脚はつと止まり、真横に指を突き出すと、相手もせわしない、また担ぎ棒の先の風鈴を鳴らしながら駆けた。
幸いおけいの場所から、二軒目の紺のれんである。ただ、店先には引出の立派な駕籠が二丁停まって、駕籠脇には、鑓や先き箱を肩に、中間や袴の股立ちをうんとからげた若党ら、四、五人の供廻りがたむろしている。おけいは胃のあたりがきゅっと射しこんだ。
（こんな大層な店のあるじに、うちはほんまにじかに売り込むつもりかしら）
と、いったんは躊躇いつつも、大きく息を吸い、勇を鼓して八の字に開いた紺のれんに
身を入れた。
百畳はあろう店の間には、帳場格子が幾つも並び、その背後には樫の木の厚い銭箱が延々列をなし、上がり縁では客を応対する者や天秤で秤量する者、帳面に顔を伏せて算盤を弾いている者など、みな折り目のある仕事ぶりで、誰を掴まえて案内を乞えば良いか、目を泳がせているそれだけで、すでに気骨が折れた。
入口近くで帳面を繰っていた手代が、ふと顔を上げたのは救いで、素早くおけいを目に止めて、用向きを尋ねてくれた。「あの――」とおけいが口を開きかけたとき、
当の十右衛門が、土間奥ののれんを分けて、にこやかな顔を現した。二人の中年の武家がその後に続いていたが、玄関の供廻りを連れてきたどこかの藩の留守居役あたりにちがいなく、十右衛門は丁重に出口へ導いて行く。途中、おけいを見て、おや、という顔をした途端、
（ああ、良かった――）
と忽ちおけいが安堵したように、武家を見送ったあと、十右衛門は、
「珍しいおひとにお目にかかる。ま、茶なとお出ししましょ」
と敷居を跨いで早々に言い、不意の珍客を快く迎え入れた。
「それは面白い。新規のあきないで一番客になれるのんは、縁起がええ」
奥の居室に向かい合い、ひと通り説明し終えると、十右衛門は膝を打って賛同し、なんと即座に宴席を申し込んた。おけいの矢立を所望し、
「宜しいか、これも名誉の一番名乗りでござりますからな」
と体を屈め、自ら帳面に予約を書き入れたのである。口にこそしないが、これも十右衛門の好意の顕れであろう。大坂きっての商人の直筆とあれば、文字通り天下のお墨付きであった。この筆跡を見せるだけで、信用の裏打ちにも、勧誘の後押しにもなる。しかもそこにはなんと、最上級の松の宴の予約が月に一度、向う一年間分、花が開いたような達筆で署名とともに書き込まれていた。
〆て、百二十両。初手からの大あきないである。
（うちの取り分はこの内五分で六両。身代金の二十両までに、あと八両。――なんと幸先のええ）
おけいはこの場で自分の頬を抓り、現であることを確かめたいぐらいであった。
十右衛門の好意はなお尽きなかった。
「知り合いにも、声をかけて頂きましょうかな」
と、呉服の丸長こと丸屋長平、砂糖仲買薩摩屋孫右衛門、といずれも鳴り響いた著名な商人に宛て、ごく気楽に帳面のうしろを使い、簡略な紹介状さえ認めてくれた。
（按ずるよりも、産むが易し）
大文字屋をあとにして、おけいが微笑とともに洩らしたのは、八卦見の良朴の口ぐせであった。そのじつ不安に震えながらも、当って砕けよとばかり飛び込んだ淵で、望外の首尾を得た。天にも昇るような嬉しさを、もっともらしい諺を引いてみて、取り敢えずも寿ぎたかったのである。
当然ながらおけいの足取りは軽かった。今橋通りの通行人ときたら、よほどあきないに追われているらしく、風呂敷を担いだ手代から大八車の車力まで、みな息を詰めたような顔付きで、それだけで幸運な滑り出しを遂げた身にはひとしお可笑しかった。が、早速、紹介状の先を訪れるこれからであれば、数歩と行かぬうちに笑いは押し殺し、しかつめらしく口許を結んで足を運んでいた。
今橋通りから堺筋を南に取って、やって来た本町三丁目の丸長の長のれんを前に、もはや躊躇いはない。何しろ大文字屋十右衛門直筆の紹介状を懐にしている。
大間口の敷居を跨ぐと、店の間に一列に並んでいた紺前垂れの手代たち全員が、客を応対中の者もそうでない者も、みな一斉に「いらっしゃいまし」と声を張り上げた。
呉服の大店なら、こうである。
愛想笑いをしながら膝を進めてきたひとりに、おけいは「着物の用やおませんけども」と断りながら、大文字屋の紹介状を披き、あるじの丸屋長平に面会を乞うた。手代は奥に引き取り、入れ替わって胸当てに前垂れの丁稚が茶を運んできた。では、と上り縁に腰掛けて、おけいは悠然と喉を潤した。落着いた態度は一見常連客である。とはいえ、湯呑を下ろすその手は、心なしかぎこちない。無理もなかった。何分呉服屋の目はうるさい。結城縞の一張羅こそ纏っているが、履物は底の磨り減った貧乏下駄である。奉公人たちが、新来の客にそれとなく注いでいる値踏みするような視線に、必死で耐えているのである。
再び現れた手代は、おけいの前で膝を折り、
「他ならぬ大文字屋さんのご紹介で、手前ども主人長平、たいそう痛み入りおります。喜んでお会いしたいと申しておりますが、ついては来月――」
「――来月？」
思わず訊き返していた。耳を疑いたくなるような返事である。そんな悠長は、四日で決着すべき算段に到底間に合わない。
「左様でござります。来月の十日、昼八ツ(午後二時頃)でいかかでござりましょ」
「はあ」
おけいは馬鹿のように口をあけていた。
（そんな殺生な日取り）
と内心大いに息巻いていたが、いますぐ会いたい、と詰め寄って食い下がれるほど、おけいはもの慣れていない。悪いことに、そうなれば、おのれの用件が宴席の売り込みに過ぎないことを、気弱く思い返している始末であった。しかも、妙なもので、
――お客には焦りを見せたらあきまへんえ。
と、けさ釘を刺した女将の言葉が、こんな場面で思い返されもした。
（大文字屋さんより小ものやのに）
丸長には悪いが、大文字屋より数段格下のあきんどの、この構え方をただ愚痴っぽく恨んだ。
丸長の手代も目敏いあきんどのひとりである。紹介状の威光でもあろうが、おけいの当惑を見て取るように、揉み手をしながら、言った。
「長平は只今も接客中でござりまして、本日はまだこれから、先にお約束したお客人の予定も控えておりまして。何分共ふだんから、毎日二十人を下らぬ方々とお会いせんならんような按配でござりまして、呉服だなのあるじというのは、やはや、なんとも――」
長々、苦しげに弁明したが、仮令大物の紹介状付きでも、本人の名乗りが「料亭稲久のおけい」では、所詮は後回しの扱いにされるのだろうと、おけいはそこらあたりを汲んで、悲観的にはなったが、笑みだけは忘れず、
「お忙しいさ中にありがとうさんでござります。では、来月十日に参ります上は、何分共、よろしゅうお頼もうします」
と、折角の日取りだけは愛想良く受け入れて、すらりと立ち上がった。
おけいは忙しい。くさってはいられなかった。次は砂糖仲買の薩摩屋である。場所は唐物町二丁目で、本町からはこのまま二丁堺筋を南に行けばよかった。
道すがら、
（あと八両、あと八両。――）
お題目さながらに唱えている。
通りかどに丸に薩の字を染め抜いた紺のれんが、片端に重しを結わえて翻っていた。これはもう間違いないはずと、土蔵づくりの横壁を見せるその店にいそいそ近づき、店に入った。大文字屋自筆の紹介状を携え、自信満々立った店土間である。が、目の前に飛び込んだのは思いがけない光景である。
つい先ほどまで人がいた気配はある。すうっと煙の立ち昇る煙草盆、開き放しの帳面、奇怪なのは、奥の間に続く敷居ぎわに、乱雑に解き捨てられた前垂れが一枚――。
ところが、広い店座敷に、肝心の番頭も手代も人影はふっつり消えている。不用心もこの上なく、帳場の背後にある銭箱は、今なら脇に抱えてこっそり持ち逃げも出来よう。何か非常な事態に慌てふためいて、みなどこか穴倉にでももぐり込んでしまったとしか思えなかった。
「あのぅ、ごめんやす、どなたか居はらしませんか」
恐る恐るのように呼びかけた。が、誰の返事もない。かすかながら、風に千切れるような泣き声が聴こえたようだが、空耳のようでもある。いずれにしろ、ぶきみな静まりようである。おけいは呼吸が怪しくなった。
「ごめんやす、旦那さんの薩摩屋さんに用事で罷り越しました」
今度はやや大きめの声で呼んだ。やがてドタドタと廊下を駆ける足音がして、吻っと安堵すると、奥から中こどもの丁稚が泡を食って飛び出してきた。
「お越しやす。あいにく本日は急な取り込みで、只今大戸をおろさして頂きます」
あたふたと云った。挨拶もものかわ、帰ってくれというのであろう。口を開きかけたおけいに構わず、丁稚は土間に飛び降り、せわしなく頭を下げながら玄関に向けて掌を差し出し、目まぐるしい、鳥が羽ばたくような追い立てである。おけいは急いで、
「今橋の大文字屋さんのご紹介で伺うたんです」
と、いった。果然、丁稚は目を瞬かせ、
「はぁ、大文字屋さんだっか。せっかくだすけど、えらい大事がおまして、きょうはあきまへんねん。出直しておくれやす。あるじの跡取が、まだ四歳だすが、井戸に落ちましてん」
と大変な事をいった。
「まぁ、そないなことが。――別条おませんか、跡取さん」
おけいは目を瞠り、変事に心を奪われて訊いた。
「あきまへん、もう仏さんだす。誰も気づきまへえで、だいぶ長いこと浸かっとったようで――」
と、中こどもの丁稚は湯中りかなにかのように云ったが、鼻を膨らませて、衝撃は表情が物語っている。さらには痛憤やるかたなしという口調で、
「たったいま引き揚げられたんだっけど、土左衛門と変らしまへん。旦はんもご寮はんも井戸の傍で気の狂うたように泣いてまんねん」
「――そうだすか、お気の毒に。ちょっとも存じませんで、えらいときにかんにんしておくれやす」
詫びを云っておもてに出ると、丁稚も連なっている。せかせかとのれんを下ろすと、内らに入って竹棹を取り、内梁に留めてあるのであろう、大戸の掛鉄を外しにかかった。天井を仰いで器用に棹を操っていた丁稚は、ふいにおけいを見、
「姐さんみたいなきれいな人、見たことおまへん」
と言い放って、途端、バタンと大戸が降りた。
（こんなときに。――）
とおけいは呆れたが、丁稚として主家への忠義はおけいを追い立てたが、それとは別に中こどもの本音を吐きたかったらしい。
おけいは別に嬉しがりもせず、深い溜息を吐くと、閉て切られた戸口に佇んで、しばし合掌していた。四歳だったという幼児の死を悼みながらも、あまりの不吉なめぐり合わせに動揺している。どうしても土左衛門という丁稚のひと言が引っ掛かった。脳裡に、死んだ嘉久蔵の、菰の下から現われた青膨れした顔が甦っていた。
（寄りによってこのうちが、土左衛門の現場に居合わせるやなんて）
験の悪さに暗澹とした。薩摩屋には心から同情したが、こんな不幸との遭遇は、自身の前途をはっきり暗示しているにちがいない。
おけいの意気込みは、この事件に出会ってすっかり暗色に塗り変ってしまった。
折角思い付いた商いは、このまま沈んで行くのであろうか。大文字屋での成果はやはり希有な出来事で、あとを続けても穴の空いた船ぞこに水が上がるように、みるみる足もとが没していくように思えてならない。
（このぶんでは、平野屋さんもあかんやろうな）
悪いほうにばかり観測が赴いた。このあと、先日、羽織を濡らされながらも、女将に誉め言葉を残して行った平野屋を訪ねるつもりであった。が、いまの流れで見えてくるものといったら、先方は留守かそれとも一笑に付されるか、どちらかが関の山ではないか。よぎるのは、悲観的な景色ばかりである。
おけいがひとり合掌するすがたに、通行人が興味ぶかげな一瞥を投げた。が、物乞いとでも思ったか、すぐにそそくさ通り過ぎた。おけいは合掌を解き、煮えきらぬ気分のまま踵を転じた。きょうは予定を切り上げ、退散である。
稲久で報告を済ませ、樋之上の長屋に帰り付いたおけいは、六両の成果を女将から大いに誉められたことは言わなかったが、琴に初めて自身が始めた商いを説明した。留守中、琴が掃除したのであろう、台所土間の格子、部屋の桟や長押、古畳がこざっぱりと面目を一新している。
淡い冬の西日が射す部屋で、きちんと正座しながら琴はおけいの話には目を丸くした。
「えらいこと考えつかはったんだすな」
「云、苦し紛れやけど、ちゃんと商いになったんえ」
おけいは押入れに立ち、前日までの貯えを畳にならべた。それからにこりと琴を覗くと、徐に女将から受け取ったばかりの丁銀、豆板銀六枚づつを、財布から取り出してならべた。財布に入っていた銀子は合わせて三百六十匁、金子にして六両分である。
「きょうだけで六両も稼がして貰うたんや。押入れの分と合わせて十二両、あと八両え。大丈夫やろ琴ちゃん」
おけいは涼しい顔で云った。
「――姐さんて、すごいやり手だすな。このぶんなら、あてもう、大坂にずっと」
「そうや、桑名になんか行く心配あらへん。初日からこんなに儲けがあるのやもの。な、うちらには福の神さんが憑いてくれてはんのえ、きっと」
おけいは微笑っている。福の神のご利益は、大文字屋ただ一人で終わりそうだというきわどさは口にしない。おけいが駘蕩と目許を和ませているのは精一杯の演技だが、演じながらもあすの綱渡りを思い、じんわり額が汗ばんでくるのは始末が悪かった。
「さてと、うち、せいだい歩いて埃まぶしやさかい、顔洗う」
つと土間ぐちに立って、水瓶を開け、手桶に水を掬ってぱしゃぱしゃとやりだした。
「姐さん、手拭」
気を利かせて琴が差し出した豆絞りのそれを、おけいは濡れた顔を向けて受け取った。
「おおきに、琴ちゃん」
格子に射すひかりが、互いの心の琴線を照らすように、二人に注いでいた。
十
正月八日、期限の十一日まで猶予はあと三日。そのあいだに、八両、何とか稼ぎ出さなければならない。自身の給銀二年分以上にも相当する額と思えば、目覚めた床で気も重かった。が、おけいは粥と漬け菜の朝食を済ますと、琴に見送られ、明るい顔で家を出た。
路地を歩き始めると、肩上げの絣を着て、風呂敷包みを背中に斜め掛けしたこどもが、「おけいはん、ごきげんさんっ」と小生意気にひと声かけて、疾風のように脇を駆け過ぎた。女房に逃げられ、長屋の奥でここ半年独り身でいる回り髪結いの一人息子である。あのまま大川沿いを駆けて、鍋島家の蔵屋敷が間近かの、安道場のような寺子屋師匠の元に行くのだろう。
（竹坊、げんきになって）
数日泣き暮らしていたこどもが元気を取り戻し、目を細めていると、おろくがどぶ板を鳴らして追い縋って来た。木戸ぐちで振り向いたおけいの手を取り、
「これな、少のうて照れ臭いけど、取っておいて」
一分銀を握らせた。小ぶりな花札のような形だが一両の四分の一に相当する。
「あかん、そんなん」
おろくの所帯はわかっている。おけいは押し返した。
「ええがな、琴ちゃんのためや、あての顔も立ていや。人援けに乗り出そちゅうようなな、ほんな柄やないけど、うっとこかて、気ぃ揉んでるね。というて、暮れに舞い込んだ祝儀はあらかた費うてしもて、差し出せるのんはこれぽちや」
「それなら、なおさら。おろくさん、そんな気遣いせんとおいて。これはうちの勝手な発意なんやし」
「そんなん云いな。おけいちゃんひとり奮闘してるとこを、横目で見てるだけでは寝覚めが悪いがな。ここわやな、隣の老夫婦が高いびきで眠れるように、ちょびっとの銭でも受け取ってやり。――それがあんた思いやり」
おろくは図体の割に小ぶりな手に力を込めて、無理からおけいに握らせた。そして念押すように頷くと、背を翻して行ってしまった。
「おろくさん、おおきに……」
夫婦ともに日々恬淡としているが、浮草稼業でひどく稼ぎに斑のあるあの所帯を思えば、済まない思いがしたし、いつもながらの親身さには目が潤んだ。
だが、おけいは出がけに得た思わぬ援軍に気持ちを弾ませた。
そうして幕の開いた外回り二日目は、殆ど手当たり次第のがむしゃらな勢いで駆け回った。前日訪問を取りやめた淡路町の平野屋に始まって、船場では樽仙こと樽屋仙右衛門、酒問屋の幸田屋治平、天満側では青物市場の頭取「やお万」こと八百屋万輔、絵草紙屋の亀藤、材木問屋の角源、と稲久の常連で少しでもおけいへの覚えが目出度そうな客は、片っ端から訪ねてまわった。
この間、いつかおけいはコツらしきものを体得していた。訪問相手にとって、宴席を張るのは元来愉快なことにちがいない。物を売りつけるのでもない。彼等、三日に一度は商売がらみで会食するような連中は、自分の趣向さえ活きれば、興に任せて一席設けても良かろうと身を乗り出す。そこでおけいは、大安でも先勝でも梅見の宴でも、予め目録に挙げた宴会を呼び水に、
「旦那さんやったら、どんな挨拶しはりますやろ。それに合うた料理も作らせて貰えます」
と相手の趣向を引き出すように話を向けていくのである。ただ、そこに、波に乗るという状況作りがさらに大事で、これは相手の性格や虫の居所、こちらの気分が絡み合ってなかなか容易い技ではない。それがないとせっかくの誘い水も、十中八、九予約に持ち込めるものではない。
――ま、もっと面白いことを考え付いたときにしまひょ。
と、とどのつまりは先の話、つまりはその場限りの話に終わってしまう。最も期待していた平野屋はこの傳で、帳面を披き大文字屋の署名を見せても、
「ほうぼう義理だてせんならん料理屋もおますからな」
と、煙管を捻りながら、稲久の客のときとは別人のような慎重さで、おけいのやや勇み足の売り込みを、結局のところ否んでしまった。
――頼りにならんおひとだすな、もう結構だす。
おけいは途中から、自分を買っているはずの相手の、のれんに腕押しのような反応にはいらいらしていたから、そう言い放ってみたいところだった。が、実際は、一々相手の片言隻句に頷いて、さいごは丁重な言辞で礼を述べていた。
幸い、二軒目、三軒目はうまく行った。樽仙と幸田屋では、歩合勘定で、合わせて一両一分となる収穫を得たのである。ここでは例の波に乗れたのであった。
空腹を覚えながらも、おけいは次ぎの天満組の訪問に心急いて、休む間もなく船場から高麗橋を渡った。
橋の上に立つと、吻っとひと息つく光景が広がっている。
目の下に流れる東横堀川には、荷船が盛んに行き交って、川風に乗って聞こえてくるのは、浜で荷役作業をする人足たちの盛んに飛び交う怒号である。ところどころの岸に船腹を着けて、静かに揺蕩う屋形船はかき船である。琴と同い年ぐらいの少女たちが、船べりで手を伸ばし、笊を冷たい川水に晒しては牡蠣殻を洗っている。おけいには毎年馴染み深い冬景色であった。あの少女たちの幾人かが、芸州産のぷりぷりと実った牡蠣の盛り籠を頭上に、売り声高く市中に出て売って回る。寒を衝いて、稲久の勝手口にもやってくる。どんな時にも休み無く手足を動かして、琴と同様かき船の少女たちもよく働く。みな大坂でひと冬を懸命に稼ぎ、冬が終われば郷に稼ぎを持ち帰る。
己はどうであろう。大坂東郊の榎並の庄で、百姓をしている父親の姿が目に浮かんだ。ごま塩の髭がまばらに生えた口許を引き締めて、ひとり鍬を揮い、刺し子の野良着は泥にまみれている。無口な男である。
（誰よりうちのことを心配してくれてるのに。うちは琴ちゃんと違うて、親不孝な娘）
訪ねると、黙って食事の用意をしてくれ、帰りにはこちらの姿が見えなくなるまで見送ってくれる。嘉久蔵と所帯を持って以来、長らく音信の途絶えている父には済まないと思っている。樋之上町から歩いて一刻もかからぬ田圃と沼の風景が、すっかり遠くの空になってしまった。
（近いうちにきっと顔を見せに行きます）
おけいは腕に掛けた帳面を揺らすほど、ぎゅっと拳を握り締めていた。
天満の得意筋を三つ回ると、足許はそぞろほの暗く、材木問屋の角源を辞した南森町のあたりは、商家は大戸をおろし始めている。代わりに鰻屋や居酒屋の軒提灯がともり、暮れなずむ通りに屋台のうどん屋、燗酒売りも出始めた。うどん屋の屋台びさしに吊られた風鈴が、底冷えする町角に凍みるようなか弱い音を打っている。
「ふー」と溜息を吐いて、時間ぎれを惜しみながらも、おけいは止む無く仕事じまいの刻限を受け容れた。
（や、お腹が鳴ってる）
途端に、葭ず張りの焼餅屋が目に入り、昼食抜きの空腹を思い出した。網の上の丸餅が、炭火に焙られ、餡こがはみ出して香ばしい湯気を上げている。いそいそ店に寄って、四つ買い購めた。長屋に帰宅後、おろく夫婦に分けたあと、琴と一緒に食べるつもりである。きょうの成果はおけいに少し余裕を与えていた。
きのうと同じく、稲久で報告と精算を済ませ、長屋に帰り着いたおけいが、土産の焼餅を膝に載せた琴を前に、例によって畳にならべた額は、全部で十五両二分。きょう八日は、けさのおろくの分も含めて、〆て三両二分の稼ぎがあった。
「姐さん、どんどん増えて行きまんな」
焼餅を齧りながら、琴は畳の上の小判や一分金、丁銀、豆板銀や銅銭を食い入るように眺めている。
「もう、いっそみな小判に両替してしまおかしら」
おけいは云って、すぐ後悔した。銭が二十両分ならんだ暁は、形も色もまちまちの鋳貨を、『銭小賈』の小札を掲げた町の「銭屋」に行き、一両につき四十文程度の手数料を払い、全部を山吹色の小判二十両に両替する。そして、晴れて明日香屋に持参する。――のではあるが、すでに満額揃うような言い種をつい洩らし、琴はどう受け取ったであろう。安心してくれるのは無論結構なのだが、おけいは自身の甘さをつい露呈した思いだった。
琴は口の端に餡を付け、おけいを見上げてしきりに瞬きしていた。
「あしたもほうぼう精勤に回るから」
申し訳のように、おけいはそう付け加えていた。
二十両まであと四両二分。――
翌正月九日は、女将の居間で、おけいのあきないが始まった。
「女将さんが特にご指名のお客さん、どんな方々ですやろ」
「そうえ、おけいはん、大文字屋さんを顧客にしてくれたんは、何と言うても大手柄だした。けど、大事にせなあかん人は、他にもおます。きのう話したとおり、きょうは特にあてのほうから、回って欲しいお客はんを択んでおいたさかい」
女将はその客先の、名と住まいを記した書付けをおけいに渡した。紙を覗いて、おけいは聊か落胆した。みな隠居である。いずれも年に一度程度しか来店しない先代からの古い贔屓筋で、大事な客先には違いないが、現役を退いた隠居身分の者ばかりで、おけいの見たところ、宴席を自ら勧んで張り、おけいの差し出す帳面に勇躍予約を書き入れてくれそうな人物はいなかった。おけいは、
「みなさん話に乗ってくれはりますやろか」
と、すでに念入りな化粧を凝らしている女将の顔を覗き込んだ。女手ひとつで、稲久を料理屋番付の高位に名を連ねる有名どころに仕立て上げた女将だが、ここに至って微妙なずれが生じているのではないかと、少し気を揉んだ。
おけいの懸念を読み取ったように、
「みなうるさがたですさかい。新規のこと始めたら声だけはかけとかんとあきませんがな」とこれが形式的な挨拶であることをあきらかにした。おけいは、成る程、とは思ったが、
明日香屋の期日は明後日に迫っている。
女将の背後に、備前焼の花活けが佇んでいる。赤い花を付けて、一枝挿された椿の小枝
が、おけいの目に痛かった。
「今日じゅうにお訪ねせんなりませんか、他にこころあたりもおますのやけど」
「ひまなお方ばっかりやけど、どこにでも顔の利くご隠居衆だす。おけいはんの働きで、
上々の成果の挙がってきた商いだす。折角の出だしで、下手にこの面々の耳に入ったら、
どないないけずされるやしれまへん。取り敢えずは、ご機嫌伺いに参じました、とゆうて
訪ねてみておくれやすな。六たりはんぐらいきょうあすで回れまっしゃろ」
（きょう、あす……）
女将の命とあれば、後回しにするわけにはいかぬであろう。
あとは無闇に忙しかった。おけいのこころあたりの贔屓筋を回りながら、多少の距離であれば、女将名指しの隠居にも怠りなく足を向けた。
――ほほう、宴会をなあ。そういえば、節分には芸子と幇間と引き連れて面白おかしゅうやりましたわな。いや、待てよ、あれは南地のしぐれ亭でおましたかいな。
隠居だけに、会うとつい話が長引いたのには、じりじり居ても立っても居れなかった。ようやく隠居筋を四軒まわり、本来おけいの目指した相手を三軒回ったときは、早や日
暮れた。隠居たちからは、宴席予約はやはり取れなかった。
九日、へとへとのおけいが琴の前にならべた成果は、二両二分。〆て一八両となった。
十一
あと二両、きょう十日じゅうに稼ぎ出すことが出来るかどうか、寝床の中で考え続けたが稲久に務めて二年程度のおけいには、もうこれといった贔屓筋も訪問先もなかった。
粥と切干大根の朝食を早々に済まし、家を出るとき、琴が、戸口に立って、云った。
「姐さん、あんまり無理せんとおくれやす。ゆんべ、ちっとも寝てはれへんかったし。かましまへんねん、あて桑名の年季務めあげて、また元気に大坂に戻って来ますよって」
おけいは返す言葉もなく、無言でただ首を横に振って、長屋をあとにした。
女将から指定された残る二軒は、隠居の身であれば早朝も差し支えなかろうと、おけいは家を出たその足の、朝霜も解けないうちの訪問であったが、両方とも案の定、茶飲みばなしの合槌を打つような、足摺りするような徒労の時間が再現された。
（なんで、女将さん）
と、ここにきて足を引っ張るような女将の献策を恨んだが、ともかく義理にも使命は果たし終えた。
隠居宅二軒の訪問を済ました曽根崎から、いったん稲久に戻って心当たりを掴もうと、おけいは小雪のちらつく太平橋を渡っている。
（きょう二両にちょっとでも欠けたら、そのぶんあしたの夕方までに段取りしたら何とかなる）
交わした約束は「きっしょ限りの十一日じゅう」だから、あす夕刻でも辛うじて期限内である。こんなきわどい思案に傾かざるを得ないのは、つまりは行き詰まっているのであった。
「雪が。――」
ぶらぶらと手許で揺れる帳面の肩が氷滴に濡れて、おけいははじめて雪に気がついた。粉雪が風に巻かれ、欄干を弄っている。出掛けから予感はしていたが、やはり降りだした。
そう言えば、大晦日の夜も、雪の降り初めにこの橋に居合わせた。一年の終わりを二両の余裕で迎えたあの時から、一転、十日後には同じ二両の工面に苦境を彷徨っている。どちらもこの堀川の最初にかかるうらぶれた木橋の上である。
（太平ばし、やなんて）
古びた欄干を眺め、おけいはおもった。太平と泰平、同じ意味であろう。日頃意にも止めず、ものの三十歩も行けば渡り終えるこの暢気な橋の名に、いまは痛烈な皮肉を感じた。
（やっぱり、うちが……）
きょうの追い詰められた心境は、金の算段がつかなければ、やはり自身が身売りするしかないとまで考え込ませていた。
（きんにりょう、きんにりょう……）
とおけいは橋の上で、またうわ言のようにつぶやいていた。
が、対岸に着いて、ある思いつきが浮かんだ。おけいは反転し、また太平橋を渡り出した。厚顔の沙汰だが、大文字屋を再訪して、さらに注文を願おうと考えたのである。思い詰めた睫毛に雪の雫を置いて、おけいは今橋に向った。
八の字に裾を広げた大文字屋の紺のれんを前に、きょうは躊躇いなく店に入り、懇ろに会釈をし、主人への取次ぎを乞うた。すると、
「あるじ十右衛門は、生憎他行中でござりまして」
先日と同じ、入口近くで帳付けしている手代が、両手を膝に、云った。
（ここでもか――）
とおけいは大いに落胆したが、
「他行というと、夕方にはお帰りですやろか」
「いいえ、毎年正月十日は、恒例の伊勢参りで、帰坂は明後日の夕方でござります」
おけいは腰からちからが抜ける思いで、
「みょうごにち。――」
と繰り返していた。気落ちしたまま、目元の涼しい、謹直そうに膝を折っている手代に、
「あの、手代さんは、宴席の」
と商談を持ちかけようとして、さすがに思い止まった。
十右衛門ならでは、成る話であろう。
「お手間取らせました、旦那様によろしゅうお伝え下さい」
おけいはまたあてもなく船場の町を歩いていたが、大文字屋と同様の無印の紺のれんにを見かけると、吸い込まれるように入って行った。
店土間に立って、見回しても、無論知った顔もいないし、あるじの名も知らない。思い切って、「菅原町の料理屋稲久のおけいでござりますが」と踵を浮かして叫ぶように名乗った相手は、帳場格子の向こうに座っていた番頭であった。
目をぱちくりとさせている相手は、おけいが頬を赤らめて、
「当店で新規に考案致しました宴席のご案内に参りました」
と口上すると、
「ええ？ なんや、あんさん物売りか俄か。あかん、あかん、忙しいときや、帰ってんか」
けんもほろろの返事を寄越し、邪険に手を振って、おけいは犬ころ同然に追っ払われた。
それでもおけいは音も上げず、この調子で三軒、四軒と渡り歩いて、いずれも大同小異の門前払いを受けた。粉雪から重いぼたん雪に変った町なかを、傘も差さず、見境いもなくのれんを潜っていくおけいは、目を熱っぽく潤ませて、夢遊病者のようである。
（もっとほうぼう訪ねて回らなあかん、まだお日さんがある）
降りかかる雪を払いもせずに、つぶやき続けている。だが、時間だけは着実に刻まれていた。船場のここ高麗橋界隈では早くものれんを仕舞かけている。あたりは雪明りで明々白々だが、橋詰めに城櫓を突き出した有名な釣鐘屋敷からは、暮れ六つを告げる鐘が打ち出され、層々とした響きが静かに通りを舐めている。おけいの耳は、聞かぬふりである。
（次はどこを訪ねよ）
熱っぽく火照る脳裡に、稲久の客のあの顔この顔が明滅するが、すでにおけいの顔が通用するような相手はおらず、誰を訪ねようと追い払われるか、軽くいなされるかが落ちであった。今頃稲久では、女将自ら、しかるべき客に、おけい考案の宴席の各種を、あの美しい顔を愛想笑いでいっぱいにして、精力的に売り込んでいるはずでもあった。
次第に降り積もる雪に、身も心も痺れるように冷え切って、おけいはなす術もなく見知らぬ軒下に佇んだ。
（もういっぺん女将さんに）
雪の降りしきる通りに顔を向け、最後の頼みを浮かべていた。残された手段は、女将に借金か前借を頼むこと、それのみであった。しかし――と思う。あの女将である。琴の身代金目的である限り、きっぱりと撥ね付けるに違いなかった。それが最初の態度でもあった。女将はいかにも如才のない八方美人のように見えても、いったん口にしたことは守り通すのは、毎日きちんきちんと約束どおり精算を果たしてくれる最近の接触でも、とみに思い知らされていた。言下に拒絶されるであろう。
（けど、頼んでみるしかない）
期限の明日という明日は、今まで貯まった分全部を女将の前にならべ、渾身の気迫で切に懇願しようと思った。期限とあと二両という、ふたつながらの瀬戸際で、ひょっとすれば、女将も気を変えてくれるかもしれなかった。
おけいは軒下を出た。雪に覆われた船場の町は、店先で荷を出し入れする活気はすでに絶えて、大戸の降りている玄関もあった。歩一歩、一銭の収穫もない重い帰宅の足跡が、真新しい雪の通りに印された。
「二両……」
おけいの口からは、溶けるような声が洩れていた。
毎夜、畳に有り金をならべる。儀式めいていたが、すでに欠かせない約束事になっていた。成果のなかった今夜も、おけいは帰宅するなり、押入れを開け、琴を前に、黙々とならべはじめた。
「全部で十八両。きょうは成果はなかったのえ。あとの二両、あしたの朝女将さんに何とか頼んでみる」
おけいの頬はやつれていた。女将への懇願は望み薄ながら、他に琴に言えることはなかった。琴は頷いたが、あすの期限切れを覚悟したように、大きく息を吸い込んでいた。
「ご飯、頂こ。せっかく琴ちゃんが温かいもんこしらえてくれたのやし」
七輪に載った鍋に、厚揚げと大根の煮物が湯気を上げていた。おけいは銭を片隅に押しやり、壁際の箱膳を二台、二人の間に据えた。一つは嘉久蔵が使っていたものだった。
行灯のあかりが、黙って箸を使うふたりを浮かび上がらせているが、台所の格子窓や戸障子の向うは、降り積もった雪あかりを映してほの白い。
「美味しい、おかげでほっこりする」
「良かった……」
おけいは感想を洩らし、琴は一瞬花の開いたような笑顔を見せたが、無理に会話を交わそうとしても、互いに言葉は途切れがちである。
カタリ、とふいに戸障子が鳴った。ふたり同時に振り向くと、料理人の松吉である。角張った顔を済まなそうに曲げて、いよっ、というように頷いた。肩に、雪がかかっていた。おけいはいそいで立ち上がり、
「まぁこんな雪のなかをわざわざ。せばいとこだすけど、ま、上がって」
云いながら、上がり縁近くに置いた素焼きの火鉢に炭を接いでいる。
「こんなのっぴきならん刻限に、えらい悪いな。いや雪ゃもう止んどるんやが、軒からひょいと滑り落ちてきよってな」
と松吉は肩を払いながら言い、琴を覗くと、「よう、息災か」とひと声かけて部屋に上がった。女だけのせまい部屋で窮屈そうに膝を折ると、松吉はちらりと壁際に目をやり、
「おけいはん、聞いてるがな、宴席どんどん売ってくれてるそうやないか。わいら板場のもんも張り切ってるで。料理も新工夫でいこゆうて、あのぼんやりの藤吉までえらい気ぃ入れ出しよって、こんなんどうでっか言うて、毎晩下手なもん作りよるがな。ま、それはともかく、先だってはえらい済まんこっちゃった。今夜はな、わいも何とか算段つけて、ほい、このとおり」
と松吉は、懐から紙包みを取り出して、おけいの前に置いた。
「これは貸すんやない。わいの見間違いやなけれゃ、例の算段の銭やろうが、その隅にうずくまってるもんの仲間入りをさしてくれたらええのや。なに、実をいうと、わいが手ほどきした板前の舎弟がおってな、そいつが博打で当てた金や。まじめに働けと意見しに寄ったところ、こんなに儲けたちゅうて自慢そうに見せよったさかい、ほたら人助けのためやゆうて、巻き上げてきたんや。恥かしいような額やが」
松吉は小鼻を掻きながら、いつもに似合わない長広舌で、多分話はでっち上げであろう。弟分や博打を持ち出して、道々考えてきた眩まし方に違いなかろうが、おけいはただ合槌を打っていた。そして、思わず熱くなった目頭を抑え、
「おおきに、ほんまにおおきに。松吉つぁん。何とお礼を言うたらええのか」
と涙声で云った。琴も手を着いて、「おおきに松吉つぁん、おおきに」と繰り返していた。
「ええがな、照れるがな。どうせあぶく銭や」に
松吉は大きな手を当てしきりに横鬢を撫でていた。
「そうだすね、松吉つぁんの言わはるとおり、あの隅に置いてあるお足は、そうだすねん」
おけいは口許を掌で覆い、ひと啜りして言うと、膝を浮かせ、壁際に寄った。そしてうずくまった銭を部屋の真ん中に集め、いつもどおりの儀式をもう一度やり始めた。松吉の厚意を、こんなやり方で感謝したかったのである。
畳のへりを目印に、それに沿って一枚一枚、稼いだ日ごとに順に横一列にならべて行く。そして、これはどこそこから何々の宴会で、あるいは、木戸口でおろくさんから、というふうに、頭の中に入っている由来を、ひとつひとつ声にする。
最後に、松吉の包みを開けて、おけいは唾を呑み込んだ。その人に軽く会釈をしてから、中身を一番端の二分金の横に置いた。
一両小判である。琴が思わず声をあげた。
「姐さん、あと一両。――」
十二
いつもながらの肩口を掛け継ぎした木綿縞をまとって、おけいは女将の前で神妙に手をついていた。
懐が少し膨らんでいるのは、昨日まで貯めた銭のすべて、胴巻きに入れて忍ばせている所為である。今回の申し出を女将に退けられた場合、中身を畳の上に解いて、あと一両何とかお頼申します、と是が非でも食い下がるためだ。が、女将を前に、おけいの表情はあくまで水のように澄んでいる。
「買い取っていただきたいものがおます。即金で、価は一両と付けさせていただきました」
落着いた声で澱みなく言った。
「何を買えば良えのかしら」
この頃になると女将のおけいに対する信頼は相当なものがあったから、微笑をふくんで傾聴する構えを見せた。
「しまつです。倹約を買うていただきたいのだす」
「しまつ、を？」
「へえ、これまで稲久で働かせていただいて、わたしなりに気づいたことがおます。稲久にはしまつの種がほうぼうに落ちてます。その種を拾うて育てたら、みすみす失うていた儲けを取り戻すことができます」
「ふむ、つまり、おけいはんにはほうぼうに無駄が見えるというの。――それで？」
おけいはその無駄のひとつひとつを挙げ、そこに倹約の処方箋――無駄を儲けに開花させる方法を述べていった。
「昼から夜にかけて、仲居がずっと店に溜まっているのは腑に落ちません」
一日のうち、昼八ツ(午後二時頃)から七ツ半(午後五時頃)までは、客足はまばらになるか日によってはぴたりと絶える。にも拘らず、仲居の総勢が仲居溜まりで無駄ばなしに花を咲かせたり、茶を飲んで過ごしている。その時刻、仲居は三、四人も居れば充分で、あとの者はいったん店を引き取り帰宅させれば良いのだ。そのため、
「日割りの給銀やのうて、時刻割りにしとくれやす。日当が減って困るという人は、うちがやっている外回りか庭の手入れに就かせとくれやす」
と、おけいが提案したのは、時間きざみで報酬を建てる、芸妓の花代にも似た働き方である。言うまでもなく、後世ではパートタイマーという定着した呼び名のあるそれである。
次いで、おけいは料理の種類が多すぎる、と指摘した。いったん品書きに昇ってしまえば、さほど客の注文がなくとも材料だけは常に揃えておく。そのため腐らせ、厨芥になる材料の何と多いことか。
さらに、皿や鉢、器の数をもっと増やす必要があると言った。増やせば、洗い場の仕事は、いっときだけで事足りる。器の数が不足がちのため、膳を下げるたびに、常時洗っているが、洗い場には汚れたまま器をどんどん積み上げ、ひまな刻限に至って初めて仲居や板場が洗い始めれば、洗い場に特別の員数を割く必要はない。差し引きすれば、器を買い足しする費用などたちまち弾き出せるはずである。
他にも、細かく割りすぎている小座敷は、普段は襖を取り外して、衝立を置くぐらいの大広間にして使えば、いまより二割程度客席を増やせる。昼時の混雑時、店に入りきれずに止む無く帰している客が結構あり、その都度おけいは悔しい思いをしているのである。また座敷に限らず、入れ込みの客も必ず仲居が案内して場所を割振れば、やはり無駄なく客を収容でき、いつも気になっている埋めずの領域を無くせる。
出来るだけ追加注文を取れるよう、仲居はもう少しまめに客席を回るなど、おけいの提案はさらに続いたが、女将はすべてに注意深く耳を傾け、聴き終えると、
「安すぎるかも知れませんが、おけいはんのいまのしまつ、〆て一両で買い取らせて貰いまひょ」
ときっぱりと云って、結んだ。
おけいは成功した。
二十両を懐中に、稲久の廊下を急ぐおけいである。正面から、ムネがやはり急ぎ足でやって来た。そのまま擦れ違ったものの、しわがれ声がおけいを呼び止めた。
「あ、ちょっと、玄関に空心町の親方が居はんね。おけいはん、悪いけどな、ムネは郷の播州に戻りまして、金輪際ここへは戻ってきまへん、と言い繕うておくれやないか」
と、ひそひそ近づいてきたムネの顔が蒼い。
「ムネさん、お店辞めてしまいはるんですか、お郷で何ぞご不幸でも」
「方便やがな、親方とはちょっと取り込みがあってな」
ああ、と思い当たった。お福の事件で被害額を過大に申告したのが祟って、十手持ちの安五郎にせびられているあの件であろう。何回かの要求に居たたまれなくなってのこの場面にちがいない。
「うまいこと、何とか、な」
と懇願したかと思うと、急に奥目を底びからせて、
「というて、ただでは頼めへんわいな、とくにあんたにはな」
と腹立たしげに、こんな場合でも相変わらずの憎まれ口を叩いたが、吝嗇のムネには珍しく、財布から銭を取り出し、おけいに握らせた。よほどの狼狽ぶりである。
「はぁ、十六文ですか。素うどんなら一杯だけ食べられますな」
おけいは掌を覗いて、目をまたたかせ、この際、人悪く出てやった。むっ、と口を尖らせ、ムネはあたりを振り返ったが、生憎の早朝でおけい以外同僚の誰も見えず、玄関からは十手持ちの塩辛声がいらいらと鳴り渡ってくる。
「ほたら、五十文や、後生やさかい」
さらに銭を取り出して、ムネにしては大層な奮発だが、おけいは灸をすえるつもりで、落ち着き払って、
「相手さんは玄人さんやさかい、きつう問い質されて、もののひと月ほどで帰ってきはるような、ついアホな口上でもしてしもうたら、どないしましょ」
「あないに怒鳴ってるがな。早よせな、上がり込んで来よるがな。ほな、ほな、これであんじょう収めてえな」
慌てふためいて、ムネはひと括りにした銭緡ごとおけいに押し付け、ばたばたと裏木戸の方角に駆け込んだ。
思わぬ駄賃を財布に収めて、おけいは悠々廊下を渡り、式台で湯気を上げているたかり屋のもとに近づいた。表情を繕ってもっともらしくムネの辞職を告げると、
「えらい鳥が羽ばたくような出立やないか」
と十手持ちは剥き出したような恐ろしい目を、粘ちこく這わせて探りを入れた。おけいは意味ありげに相手を覗き込み、云った。
「親方、ムネさんに、大きにご執心のようで、それともお福さんの事でまだ何ぞ……」
途端に相手は態度を変え、
「いや、ここの古株やさかい何かとな。近頃どんなあんばいか、界隈の噂でも、と思てな」
安五郎は急に立ち上がり、
「いや、邪魔した」
と羽織の埃を払うと、咳払いをしながら出て行った。おけいは笑いが込み上げてきて、しょうがなかった。長年溜まっていた胸の澱がすっきりと洗い流されたような思いだった。
そんな椿事のあと、おけいは稲久を急いで飛び出し、途中、銭屋に寄り、小判で二十両そろえたあとは、昼前には、明日香屋文七に証文と引き換えで、全額差し出した。
「ふ、危ない綱渡りのはずやったが、よう間に合わせたやないか。ま、これも何ぞの縁や、あんたが困った時にはいつでも相談に乗るぜ」
思惑通りに事は運ばず、文七は帳場格子の向うで未練げに云ったが、おけいは、
「いいえ、二度とこちらさんの敷居を跨ぐ用はおません」
と、とどめを刺し、継ぎの当たったきものの背中を見せて、素気無く明日香屋をあとにした。
樋之上の長屋に着いたのはそれから半刻後であった。琴に証文を見せて言った。
「もうこれでずっと大坂に居れる」
畳に正座し、取り返した証文を穴の空くほどみつめていた琴だが、紙を押しやると、頭を垂れ、声もなく泣いた。支える両の腕を震わせ、涙にくれるその姿を、おけいは傍らでただ見守っていた。
やがて泣き焉むと、琴は鼻を啜りながら言った。
「姐さんのこと、あて一文無しにしてしもた」
「あしたからまた沢山稼げる。心配せんでええの」
「あても早よ、働きたい。――」
「うん、あしたからお針教えてあげる。琴ちゃんやったら、じきに一人前になれる」
おけいは云ってから、口許を綻ばせ、
「これから散財に行こか。本当はねえさん、一文無しと違うの」
と縞の財布を出して、逆さにし、畳の上にばらばらと中身を空けた。
「ふふ、やっぱり福の神さんがついてくれてはった。百五十文がとこ、急に舞い込んだん。な、半分は置いとくことにして、残りは使いに行こ」
「行こて、どこへ」
「――えべっさん。きょうは十一日、残り福や」
一昨日の九日から始まった十日戎の祭りは、九日が宵戎、十日が本戎で、きょう十一日の最終日は、残り戎とも残り福ともいう〆の祭りである。
「せっかく舞い込んだお足やったら、全部置いといたほうが、良えのんと――」
えべっさん、と聞いてぱっと頬の華やいだ琴だが、一時に声をひそめて言う。
「かまわへん。ことし一年、またお足に縁がありますように、ゆうてお願いに行くんやもの。それに、――福の神さんにはお礼参りせんとあかん」
樋之上町から堀川の蛭子の宮は、堀川運河に沿ってひとつ界隈。川沿いの柳と桜並木を右に、まっすぐ北に向えば、ほんの散歩程度で左手に石鳥居が待ち受ける。
小間物屋や茶店がならぶ堀川沿いを行きながら、琴がつい足許を見てしまうのは、今日初めて履いた下駄が晴れがましいのであろう、鳶色鼻緒の朱塗りのそれは、おけいが餞別がわりに贈ったものである。
太平橋、樋之上橋、樽屋橋、と欄干に記された橋の名を尻目に、おけいには、きのうまで切羽詰る思いでこのあたりを行きつ戻りつしていた自身の姿が甦っていた。解き放たれたいまの思いからは、まるで嘘のようだが、息さえかぼそくなって、喘ぎ苦しんでいた自分である。
堀川に浮かぶ通い船が、ゆったりと櫓を反しては、ときおり川面をぱしゃっと鳴らす。いま、おけいは心底充実した思いに浸っていた。
（これで、ひと山越したのやろうか）
おろくの占いが憶いだされた。おろくは、おけいが運を啓くまでには、もうひと山かふた山、難所を越える必要があると言っていたが。
堀川橋に近づいたときは、同じ方向を目指す人の数も増え、森がさざめくように、早くも十日戎の賑やかな喚声が風に乗って聞こえてきた。
「みなお参りに行かはるんだすなぁ」
周囲を見回し、琴が感慨ぶかそうにつぶやいた。
「みな商売繁盛願うてはるんやもん」
「金の世の中だすなぁ」
琴はひとり感に堪えぬように首を振っていた。
やがて、篠田鮨やごろく煎餅、田楽、粟餅、七味唐辛子、州浜、岩おこしなど彩々の屋台がずらりと沿道にひしめいて、残り戎の賑わいが、目にも潮のように押し寄せてきた。
「ひゃ、誓文払いみたいな人出や――」
参道は人波が押し合いへし合いして、すき間も無かった。十日戎の祭りをはじめて見る琴には、熱気のこもった人出が、血眼で品物に殺到する大売出しのぞめき客のように見えるらしい。こどもを肩車する者、福笹を肩にした者、顔付きこそ皆なごやかだが、ぎゅうぎゅう互いを圧する唸りが聞こえてくるようだ。
「姐さん、嘘みたい。あてこんなとこに居るやなんて」
無邪気におけいを見上げた琴だが、瞳にきらりと兆した潤みを、おけいは見逃さなかった。
「嘘やのうて、ほんまに居るんえ。福運招来、琴ちゃん、うちらは福を招き寄せたのや」
本殿から湧く商売繁盛の連呼が、互いの耳を拍つなか、琴をみつめたおけいの瞳はきらきらと輝いていた。
「さ、うちらも福笹買わせて貰うて、神さんに沢山お礼しよ――」
「へえ、ほんでも倹約が肝腎だすやろ。あしたのこと考えて、うんと安いのんにしときまひょな、――姐さん」
（了）
堀 川 戎