橋 の 雪
一
京でかざはなとよぶ、紙粉のような小雪がちらついている。
風呂敷包みを手に、お園はちょっと思案した。紅殻格子に青竹の犬矢来、屋形の枠に嵌めた軒灯には、『ひろ彌』とある料理屋の、細長い石露地を渡した玄関先である。
雪はここ数日の愛宕おろしが連れてきたのである。せまい運河に沿って続く木屋町通りに舞い散って、川岸の柳並木をなぶり、高瀬川に浮かぶ船荷の薦をなぶっては、浅瀬に卒然と消えていく。
京美人、と幼い頃から言われる、面長で多少吊り気味の目尻を持った女将のお園は、艶やかに引かれた眉を上げ、寒を吹き込んだ空を見上げた。嘘のように明るかった。
結局、傘はよした。雪はじきやむだろう。片手に進物を抱えている。一方で傘をさし、両手を塞いでしまうのは億劫だった。これから東山にあるさる得意すじの寮まで、年の暮れの挨拶に出かけようとしている。
お園はすらりと敷居を跨ぎ、そぞろに風の立つ通りに出た。縁取りの麻裏草履に、卸し立ての足袋が小気味よく馴染んだ。軽快な感触を愉しみながら、茶屋、旅籠、長州藩控え屋敷、船問屋、といくつかの軒先を過ぎて、御池通りを渡り、南を辿る足を東に曲げて、三条大橋に差しかかったのはほどもない。
(まあ。――)
橋畔の人影に、思わず嘆声を洩らしていた。托鉢であろう、尼僧が風花に巻かれ、手甲ばきの両手を合掌させ、身の引き締まるような真っ白な脚伴ばきで立っていた。向う岸近くの欄干を背に、前を、振り分け荷物の旅人や肩棒の飛脚が横切って行く。ただそれだけの光景である。が、毅然と立つ尼僧の姿は、冷え鎮んだ東山を背景に、墨絵の一幅のようにお園をうった。目も洗われる思いだった。
(寒行、どすな)
一年も果ての十二月になると、京では男僧、尼僧を問わず、寒中行とも寒念仏ともいう、町なかや人家の前に立って念仏を唱え、托鉢する修行僧のすがたがしばしば見受けられる。
橋を渡り、墨染めの衣に頭陀袋、網代笠の下に長頭巾の裾を流した尼僧の前を行き過ぎる折、その足もとに置かれた鉄鉢に、お園は銀の小粒を報謝した。みずみずしい眼福を得たいささか過分な浄財である。鉄鉢の底で乾いた音が鳴った。尼僧は合掌のまま一礼し、低声の念仏を唱えつつ、笠の顔を上げた。何げないそのとき、
お園の目が大きく見開いた。あやうく声をあげそうになっていた。
(千絵さん……)
と胸中でつぶやいたときは、すでに橋板をあとに、旅籠屋のひしめく三条通りを歩いていた。
確かに千絵にちがいなかった。歩を進めるほどに過去の記憶が甦り、同時に胸の動悸も高鳴って、つい今しがたの、淡彩な眺めを喜んだ風雅な余裕などは完全に失せていた。
笠の下で見せた千絵のあの容貌はどうであろう。二十年余りの歳月を経たとはいえ、僅かのたるみも皺もない顔立ちに、小さく引き締まった唇元。そして何より、何びともはっとさせずにおかない漆黒のあの眸は、昔とすこしも変わらない。
一変したのは、あの尼僧すがたである。組み紐屋の、甲斐がいしく、輝くような若妻だった女が、俗世を捨て、あのような尼雲水になって、路傍の托鉢に立っている――。
お園は旅籠屋の出格子や招牌に体が触れるのも気づかず、師走の通りに虚ろな歩みを進めていた。
「女将はん――」
不意に声をかけられ、ギョッと草履の鼻緒も切れるような勢いで振向いた。
「えらいご奇特なことで、尼さんにお恵みでおしたな。これからどこぞへお出ましで」
千絵との場面を目撃された――と思うと、お園は哀れなほどうろたえ、格子の戸ぐちに立つ相手に、
「えっ、ほ、ほんに、急な冷え込みようで」
と、大層見当ちがいの返事をした。見れば顔見知りの公事宿の主人である。竹箒を手に、怪訝なかおでお園を眺めている。「ほんに」と、うなじを傾けて繰り返し、愛想笑いで取り繕うと、小柄な主人の姿を置去りに、そそくさとその場をあとにした。が、京者の目はしつこい。背中に、貼り付けられているであろう視線を遁れるために、お園はにわかに南の縄手通りの辻に折れていた。
茶屋や置屋の紅殻色の表構えがならぶ道を一町ほども行き、自身、目的も覚束ぬままに、入り組んだ図子の、とある路地の入口に立っていた。味噌樽を積み上げた板塀と豆腐屋の漆喰壁が、石畳の通路を挟んでいる。
向かい家同士の庇でさほど日を遮られることもない、この比較的余裕のある路地奥の一軒に、かつて、『くみひも屋佐七』という、屋号をつつましく片端に染めた生成りののれんが掛かっていた。
二十数年ぶりであろう、お園はそっと路地に踏み入れた。弐間間口で、切子の明り取りのある格子を嵌めたその家には、いまものれんが掛けられていた。が、目近に見るそれは、京紫に太文字を染め抜きに、商売違いの『表具師』となっている。
のれんこそ違え、あの時、同じ格子に向い、千絵は太鼓に結んだ帯をしりえに、せっせと雑巾がけにいそしんでいた。銀糸の花模様を縫い取りにした水色の帯。その上に巻いた菱紺の帯締め。その組み合わせが、たすきがけで無心に白い腕を上下させる、女の清潔な動作に適って清々しく、通りすがりのお園は立ち止まり、覚えずしばし見惚れていた。
ふと目が合って、千絵は言った。
「どうぞ、見て行っておくれやす。――」
かたちの良い二重のまぶたが瞬いて、こちらをみつめた黒い眸が、濡れたようにひかっていた。きらきらと雄弁に語りかけるその双眸に誘われて、何を見に行くのかも不明のままに、お園は千絵の待つ路地に入っていった。
入口に立つと、お園は、ああ、と微笑をひらいた。のれんに染められた文字で、この家の生業を知った。同時に、しゃきりと麻の目が締まったその暖簾の真新しさ、念入りに磨かれた格子や水を打った玄関、初々しく招く女の応対とから、ここが構えて間なしの所帯なのだとおもった。
玄関を潜ると、お園の目に飛び込んできた色彩は、溢れるような豊饒さで二十二歳の心をはしゃがせた。
「どうどす」
千絵が見渡した座敷には、色糸の饗宴のような組み紐の数々が、帯締め、房紐、髪飾り、根付、十二支の人形、袋物やあるいは大小の丸や四角の敷物にもなり、他にも平打ちや丸打ちの紐が違い棚や屏風にうず高く掛け流されていた。さらには刀に付けられて下げ緒、鎧の緋おどしなどは、武者人形のように甲冑ごと曲碌に鎮座して飾られている。
お園は上り縁に腰かけ、一々を手に取っては、組上げられた繊細な模様と色彩の綾に一驚し、ついには酔ったような気分になった。
「かなん、おおきに目の毒。全部、持って去にとうなる」
上気した顔を千絵にむけて言った。千絵は自信に裏打ちされているのであろう、土間に佇んだまま静かに笑んで頷いた。
と、次の間の柱にひと筋、掛け飾りのように吊るされた平緒が、果然、お園の興味を惹いた。茜の色地に島々のような山形が繰り返され、波間に浮かんでいるのであろうか、白い泡粒が断続的な線を描いて霰に散り、こまかな波頭となって大らかに漂っている。よく見るとその平打ちの帯締めは、紫や緑、黄や臙脂の糸が、何条も複雑に絡み合い、深みと華やかさと、なぜか平家の厳島を思わせるような、これほど典雅で床しい美しさといったら他になかった。お園は土間に小首を翻して、いった。
「あれを頂かして。――」
途端に、千絵は当惑の色を浮かべた。
「かんにん、あれだけは許しておくれやす。売り物やおへんの」
アアン、とお園は駄々っ児のように首を振って、あとは、手を合わせたり、溜息を吐いたりの仕種で、千絵を困らせた。
「あの打ち紐は、どこにも出されへん特別なもんどすね。うちの主人が職人としての腕のあかしにと、丹精込めて……」
千絵は頬に赤い血の色を昇らせて口篭ったが、潔斎までして夜の目も寝ずに挑んだ仕事は、その間夫婦の睦み合いも断っての、夫が心血を注いだ渾身の組み紐だったのである。
「――そうどすか、どうしてもあきまへんか。しょうがおへんな。ああ、けど残念なこと」
と、いったんは諦める素振りをしたお園だが、なおも未練に、
「ほな後生どす、いっぺんこっきり、この手に取らせておくれやす。それで気ぃも済みますよって。あないに見事なもん、この期を逃して、もう一生行き会えるかどうか。どうかお頼もうします」
またく掌を合わせていたが、若かったお園は、心底自身の目に灼き付けて、終生忘れぬ美の残映にしたかった。大和絵師の父の血を受け継いだのかどうか、お園は生まれつき、美しいものに対しては、着物にせよ道具にせよ、貪欲なぐらいの執着心があった。
さすがにこう出られては、千絵も拒める道理がなかった。こっくりと顎を引くと座敷に上り、爪先立って柱から外し、両手に捧げ持つようにして、亭主畢生の作を差し出した。
「――やっぱり。こう、胸の内からほたほたと熱うなるような。凄い、ほんまに見事な技どすわ。こないな模様、なんで紡げるのやろ」
興奮の言葉を連ねつつ、両の掌に載せて、お園は涙ぐんでさえいた。実際、無常に散った平家の面影にも似たその組み紐は、笙々と涙を誘うような、そこはかとない哀れさを糸目の随処に留めていた。それからはお園は、矯めつ眇めつ、近寄せたり、かざしてみたり、自身の帯に重ねてみたり、とさまざまに一筋の平緒を惜しむ身振りを示した。
ふいに、閉て切られた障子の向うから声が上った。
「良かったらお譲りしましょ」
もどかしい空気を一掃する拍子木を打つようなひと声であった。お園も千絵も、きっぱりと歯切れの良い声を響かせた次の間の障子に、揃って首を転じた。
サッと障子が開いて、
「手前はこの家のあるじで佐七ともうします」
と声の主が姿を見せ、紺の前垂を外し、辞儀も遺漏なく名乗った。縞の着物の袂を襷がけでたくし上げ、役者のようにくっきりとした目鼻立ちに江戸元結で結った艶々とした髷、鴨居をくぐる動作もきびきびとした、京には悖るあずまぶりの男である。年は二十七、八というところか。
框から見上げているお園はつい掌にある組み紐を握り締めていた。胸がさざなみ立っている。それほど佐七はきりりとした好ましい男だった。佐七は障子を背にして座り、
「これだけ惚れてくだはったのや、組み紐師の本望どす。どうぞ、お持ち帰り下すって、あっしの細工に陽の目を見せてやっておくんなさいまし。なあに、まだまだ端下わざ。お蔭でこれが一番、励みになって、もっとマシなもんを拵えにゃ、とその気になって参りました」
真っ直ぐにお園をみつめていった。その口吻に似た冴えた容貌に、二人の女の視線が注がれている。ぽっとお園の頬が染まっていた。
(うちの亭主とまるで違う)
お園は疼くように思った。半年前嫁いだばかりの、老舗料理屋で五代目を張る夫は、料理人ながら職人の引き締まった面影などはなく、姿も物腰も、ものやさしいだけが取り柄のような柔弱な様子の男であった。いつも新妻のお園にまとわりついて、板場や廊下にうろうろとただ蠢いているような印象の男が、夜には床の中で女のように柔かい体を押し付けて来、くどいほどの言葉数を労して、お園を讃える睦言を吐いた。
(亭主ってこんなものか)
裾を披かれ、せわしない夫の動きに応えながら、お園は夜毎甘哀しく思っていた。
そんなぼやけた輪郭の亭主とは正反対の男が、自ら紡ぎだした鮮やかな色彩に埋もれ、鋭い鑿を入れるような視線をいま自分に向けている。
ハッとお園は我に帰ったように、
「こないな大事な細工、とても頂戴できまへん。図々しい振舞いどした、うち恥ずかしおす」
と慌てて畳のへりに組み紐を押しやった。
「いや、遠慮には及びまへん。験を担ぐわけやございまへんが、開店初っ端からえらい自信をつけさしてもらいました。手前からの礼なり祝儀なりと思うて、ここはどうにも、謙退ずくでお納め願います」
押し問答の挙げ句に、その平緒の帯締めをお園が所有して。――以来である、佐七の新作見たさの訪問が、月に一度が、二度、三度になり、やがては次の間の作業場に上がり込んで、組み台の前に座り、紐打ちの手ほどきを受けるまでになっていたのは。
玉づけした色糸を、取る、置く、寄せるの組み紐のいろはを、佐七から手を取り、額をつき合わせ、時には後ろから腕を回され、胸に掻い抱かれるような姿勢で教わった。
やがて月のうちの十日と二十日、決まって千絵が呉服問屋や小間物屋に注文取りに行くことがわかると、お園はわざとその日を選んで訪れるようになった。
男と女の間違いは、当然のように起こった。
通いはじめて半年ばかりあと、祇園社の枝垂れ桜がちらほらと咲き初めたある日。――
組み台や座繰りの糸巻き道具、かせ糸、糸枠が居流れた畳の上で、お園と佐七は崩折れるように手を取り合って、
「お園さん、わしははやまった。佐七一代、糸目に打ち出す思いの綾を、これほど汲み取ってくれる女がいたとは。終生連れ添う相手に、ようく巡り会うた。わしに似合いは、お園さん、お前を措いてどこにもない」
「抱いて、互いに妻や夫のある身でも、不義者でもかましまへん」
互いにもつれ合いながら囁き交わし、飽く無くかせ糸を巻き取るように、繰り返し相手の熱情を手繰り寄せた。
何度目か、潮の満ち干のように寄せる昂ぶりに溺れているさなか、敷居際に立ち尽くし、大きく目を見開いた千絵が、お園と佐七の陶酔境を微塵に粉砕した。
狼狽と、直後に襲った火の出るような羞恥と自責の二つながら、お園は綸子の襦袢とあられ模様の袷ごとくるんで、間男の現場に居合わせた若妻に、まごまご卑屈な目をむけた。
千絵はものも言えず、大きく見張った眸を溢れるほどに潤ませていた。
身繕いもそこくに、かせ糸を踏み、小箪笥に足をひっかけ、障子に袂を擦って、お園は千絵の脇をぶざまな泥棒猫となってすり抜けた。
それでもお園と佐七は、わりない煩悩の火を消せなかった。
密通を糾弾されるより先、
――うちは死にます。
と、お園が真葛が原の出逢い茶屋で洩らしたのは、千絵に目撃された半月後。逢引を重ねた数奇屋のはなれは、にじり口の脇が腰高に穿たれて、障子を嵌めた明り取りに祇園林の葉影が侘しく揺れていた。畳の目をみつめ、お園の血の気が引いた顔は尋常でなかった。
お園の独白を聞いて、横になり、天井を睨んでいた佐七が、ガバと跳ね起き、
「馬鹿野郎、死ぬときゃ一緒や」
と声をふるわせた時ばかりは、お園は目を輝かせて狂喜した。
「誰に遠慮も要らんあの世で、佐七さんと二人きりに」
「そうとも、金輪際きずなの切れん一つ身に」
そのまま大津のはずれを死に場所に、二人、前後に駕籠を連ね、山中越えの街道松の緑も、船板塀と白壁の琵琶湖岸の沿道も、まぼろしのように眺め去り、悲愴と恍惚をないまぜに死出の旅路を急いでいた。
しかし、湖水に漕ぎ出し、ともに入水を遂げようとした果ては、佐七だけが命を落とし、お園は生き残った。――
あれから二十数年、料理屋の亭主は妻の背信など気づきもせぬように添い続け、お園自身もその後は波風もなく女将のままの暮しに安住し、生来の衣装道楽も怠りなく、気随な境涯を送ってきた。この間、京生れだが、母ひとり娘一人ですでにその母も逝って、身寄りはないと言っていた千絵が、卒然と店を畳んでのち、何処でどう暮し、どう悲哀を耐え忍んできたのか、お園は知る由もなく、鴨の流れに白河夜船の夢を結び続けてきた。
そしてきょう、夫を奪われ、組み紐屋の世帯を奪われ、自尊心も砕かれた千絵が、思いも寄らぬ尼僧すがたでお園の前に現われた。
(千絵さんの女まで奪うた、このわたしは)
お園は己の罪業の深さに茫然とした。
路地は人影もなく、物音ひとつしない。
日に干し上り、白っぽく粉を帯びたような庇に腹ばいになって、灰色の猫が瞳孔を細めてお園を見下ろしている。何もかもお見通しという目だ。お園は、思わず半歩身を退いた。
墨染めの裳裾を翻し、突如覆い被さってきた過去の重みであった。重圧に耐え兼ねるように、お園はふらふらと踵を返し、影のように路地を立ち去った。
二
北へとって粟田口の得意筋に向うはずが、お園の脚はとりとめもない。縄手通りから四条通りへと下り、店屋の軒瓦がひしめく祇園石段下をたどり、祇園社の楼門を見ると、石段を上って、玉砂利を踏んでその境内を抜けた。次いで、茶寮や寺院の土塀が緩やかにうねる閑静な下河原の道をたどり、次第に翠嵐が深まる東山の南ふもとへと東行していった。
あてどもない足取りは、さらに二年坂、三年坂の勾配をのぼりつめ、一望が拓けて清水寺の朱塗りの仁王門を見上げた。そして、きょうは人気もない円柱の列と桧の板張りの本堂へと進み、高名なその舞台の欄干に寄って、ようやく動きを止めた。
懸崖に張りだした舞台の下は、楓の森が枝を敷き流し、眼下に渓谷さながらの急峻を見せつけた。音羽山から吹き上げる谷風が、耳朶を掠めてひそかに騒ぐ。錦雲渓と呼ばれる目眩むような景色が、欄干に寄りかかるお園に、凝っと眸を注がせた。しきりに無謀の衝動が突き上げていた。
(いっそ、ここから。――)
と汚辱の我が身のやり場を思った。お園は眉をゆがめた。尼僧すがたの千絵を思うにつれ、生きてこの世にある自身に嫌悪が湧いた。
力なく顔を上げれば、京の屋波がはるかに展けて、急に目頭が熱くなった。
あの町なかには、一人合掌して佇み、托鉢の身を寒風に晒す千絵がいる。
(――許しておくれやす)
お園は彼方京の町に訴えた。が、振り絞るような胸中の叫びも、小雪まじりの風がさらい虚空に空しく散じて行くようであった。
所詮、取り返しのつかぬ罪を犯した。お園の目が再び断崖に落ちた。
(お浄土というところ、ほんまに暮しというものがあるのかしら。そうなら今頃、佐七さんは)
愚にも着かぬ思いを去来させていた。欄干に添えた手にちからが籠もり、無蓋の淵に体が寄った。帯が横木に押し付けられたその時、抱え持つ進物の風呂敷包みが腕を抜け、中身は吸い込まれるように、風呂敷はひらひらと手招きするように崖下に舞い落ちて行った。お園は息を呑んだ。そのまま凍りついたように眼下をみつめ、動けなくなった。
やがて愕然と肩を落とし、ワッと欄干に突っ伏した。しばし肩を震わせ忍び泣きに泣いていた。その後ろ姿へ、
「どうなされました」
静かに役僧の声が問いかけた。
我に帰った身を起こし、濡れそぼった顔を向けたお園は、
「――いえ、大事おへん」
と、ゆっくり首をふった。額に、谷風にほつれた髪がかかっていた。不審げな眼差しを向ける僧に、「これからお参りさせてもらいます」と、後れ毛の垂れたうなじを伸ばし、堂奥を指した。内陣の小暗がりに灯明がゆれ、三基の厨子が鈍い金色を放っていた。僧も厳粛な面持ちを向けていた。そして納得したのか、
「おつつがなく」
と、掌を合わせて目礼し、その場を去った。
お園は舞台から離れ、大蔀を上げた出口に向い、板敷きを軋ませ、そのまま本堂をあとにした。
「障子の影まで気伏っせいやおへんか。ものも言わんで、どないしはったのや、お園はん」
帰宅後、奥に引きこもって音沙汰もない妻の様子を、夫の勘十郎が心配顔で覗きにきた。
坪庭に面した縁側から障子を開け、勘十郎が目にした女あるじの八畳間というのは、芯が乏しくなっているのであろう、床の間の脇に置かれた行灯まで、籠もるような陰気な光りを灯している。行灯を足元に、横ざまに座るお園は、隈取りされたような暗い影に沈んでいた。
「具合でもわるぅおすか」
「冷え込みの所為かしらん、なにやらおつむりが。――」
お園は額に手をあてた。薄明かりに浮かぶのは形のよい富士額である。
「どれ。――」
敷居を跨ぐと、勘十郎は妻の手を外し、自身のふっくらと実りの良い掌を宛がった。
「熱けはおへんな、ちべたいぐらいや」
甘味を含んだ舌で言い、勘十郎は掌で確かめた妻のその額に、顔を寄せ、唇をひょっとこのように突き出して押し付けた。愛情表現なのである。二十年以上連れ添っても、この夫は折に触れ、妻にこうしたこまやかな振舞いにおよぶ。
「横になりはったらどうや。蒲団、敷こか」
「気遣いかけますな、旦那はん。ほんまにおおきに」
気だるそうに膝はくずしたまま、お園は肩をすぼめてちょっと頭を下げた。
「なにや改まって礼なんか、こそばいがな。甘酒でも持てこよか、温もったらよろし」
「いいえ、お床も甘酒も要らへんのん。こう、怠けさせてもろうてたら、そのうち治る」
「そうかいな」
「へえ。それより旦那はん、みょうにち、うち、大坂の南洋せんせのとこへ、また針療治にやらせてほしい」
「ほい、ほい」
勘十郎は人の良さそうな丸顔で合槌を打っていた。年に二、三度、お園は凝りほぐしの針を打つためだけに、わざわざ伏見からの船で大坂まで下る。昼ぶねで淀川を下って夕刻大坂の天満に着き、谷町の医者宅まで駕籠を雇い、療治を終えると九ツどきの夜ぶねに乗って、翌明け方伏見にもどる。丸一日がかりの針療治である。
もともと中々こどもを授からぬ身を案じ、お園自ら、その方面で評判の針医が大坂にいると聞き込んで、勇躍出向いたのが最初である。いまとなっては出産は諦めていたが、大坂に出れば気晴らしにもなり、疲れが募ってくれば、特効薬でも服用するように出かけている。今回も勘十郎は気楽に、
「ああ、行っておいで。心気も安まりまっしゃろ。ここんとこ、大忙しの休みなしやったさかいにな。すっきりと血ぃの凝りなと、散じてお貰い。何やったら、南地へでも寄って、芝居でも観てきなはったらどうや。なに、かましまへん二泊ほどしてきなはれ」
「すんまへんな。ほな、そないさせておくれやす、おおきにどすえ」
お園は大らかな亭主の顔をまじまじとながめていた。そして、
「ときに、よろしおすのか旦那はん、まだお客はん、たんとおいでやすのやろ。きっと板場、てんやわんやどすえ。うちはもう良ろしおっさかい、早よ戻ったげておくれやすな」
と両手を上向け、追い立てる手振りも快活に、亭主を引き取らせたお園である。だが、ひとりになると、復た考え煩う人のように、気魂の草臥れた、血の透けて見えるような瞼を閉ざしていた。明日のことを思っている。針療治などは、口実に過ぎなかった。今まで一人座敷にこもって懊悩する間、あす、思い切って千絵と対面する気持ちが徐々に固まりつつあった。
会って、詫びを言い、千絵に出来る限りの償いを果たそうと、澎湃と決心しつつあった。
もし尼僧の千絵が草庵でも結んでいれば、普請や台所の賄い料など生計の一切援助しよう。庵主に仕える身であれば、影ながらでも寄進し、いずれ千絵が後継になれるような合力もしよう。
と、さまざまに思い定めはしたが、当の千絵には一体どう切り出せば良いのか、今もって巣食う躊躇いを、拭いきれない。清水寺の帰路、東大路を二条大橋まで行き過ぎて、少し後戻りして帰宅した。三条大橋で千絵と再び遭遇するのが怖かった。小心な遠回りであった。
きょうの自身の行動を振り返りながら、お園は瞼の裏側で、あれこれ対面の様子を浮かべていた。
――千絵さんどっしゃろか。お久し振りでござります。のこのこ顔出しして、お詫びの言葉もあらしまへん。けど、うちの償いをなんとか受けて欲しいのどす。
そんなしらじらしい言葉をかけられるだろうか。それより気がかりは、千絵の反応であった。千絵はあの眸で、
――いまさら、それで罪が帳消しになるとでも仰るのでしょうか。
刺すように言い、あとはあの日あの時そうであったように、羞恥に顔を赤らめているこちらをただ黙ってみつめ続けるだけかも知れなかった。千絵にすれば、加害者の己れ可愛さの余りの、虫のいい申し出としか受け取れないであろう。といって、このまま千絵の出現を見過ごしてもとの生活を続けるなどは、お園には鬼にも畜生にも劣る卑劣な態度に思えてならない。というより以上に、いまは千絵に何らか手を差し伸べないではおれぬほど、じりじりと身も世も無い焦りにかられていた。
たじろぎや焦心が吹きすさんで揺れ動くこころは、どうにも抑え難くお園を喘がせる。
(許しを乞いに行くのやおへん、教わりに行くのえ。うちのせなあかんことがきっとある)
ともすれば逃げ腰に憑りつかれる自身を否み、お園は瞑目のまま頻りにかぶりを振っていた。知らぬ間に行灯が消えて、部屋はあるじを、いまにも消え入りそうな、はかない物陰のように変えていた。
(会うて、ひと夜でも、千絵さんに尽くしたい)
やがて暗闇に目を開き、おもった。そうすれば償いの糸口が見つかるような気がした。それさえ拒絶されようと、あす、対面を果たすことが許された唯一の身の処し方であることに変わりなかった。お園は起き直り、火打ち箱を探って、行灯に新たな灯をともした。かすかに揺れる灯火は、こめかみの辺りに宿った蒼白い疲労を浮かび上らせた。お園は付け木を吐月峰に捨てた右手を挙げ、乱れた髪を撫で付けると、そのまま片頬に添え、
「会うしかあらしまへん」
と、溜息を吐きつつ呟いた。千絵は明日も橋上で托鉢しているのかどうか、それも知る限りではなかったが、いなければ京じゅうを訪ね回り、ともかく再会を遂げるまでだった。お園はもう詮方もない思案をやめた。
思い定めると、お園は次の間の桐箪笥に寄った。抽斗を次々開け、帖を捲っては物色した果てに、鮫小紋の、銀鼠の光沢が落ち着いた一領を取り出し、衣桁に掛けた。行灯を引き寄せ、跪いたその姿勢のまま、抑えた柄味の衣装をぼんやりと眺めていた。千絵との対面を期したあすの仕度である。
三
みぞれまじりの小雨が軒先にしぐれて、きょうは傘の要る外出となった。
寒の雨でそぞろ底冷えする町なかへ、青輪のもみじ傘をかざして、昼前、お園は木屋町から三条の大橋へと、小紋着の控え目な姿を投じた。家人には、伏見から昼ぶねに乗り、大坂くだりの針療治へという用向きにしてあるが。
木屋町の軒割りをひろい、二つ目の通りの途切れで、東に曲がる。そうすれば、きょう、あすにかけてのお園の身の振り方は決まる。三条大橋のたもとを踏んで、千絵の姿が見えなければ、家人への言い置きどおり、大坂へくだる。千絵がいれば、――それは千絵に任せるよりほかない他行であった。
鴨川の瀬音が、小急ぎにゆくお園の耳に徐々に迫った。高瀬川のせせらぎに掛かる三条小橋のたもとで、女児が小傘を回して、雨つぶの下に遊んでいる。みすや針の店先である。雫を散らし、くるくるとまわる傘の向うに、大橋の擬宝珠が見え隠れする。やがて、緩い橋板の隆起がお園の目に流れ込んだ。
千絵はいた。――
きのう同様、橋の東詰で、欄干を背に白い手甲ばきの腕を合掌させている。網代笠に黒の法衣の托鉢姿が、きょうは雨滴のなかで靄が立つように霞んでいた。お園は傘を傾がせ、いくぶん顔を蔽って橋を渡った。
こみ上げる動悸を抑え、次第に歩みを緩め、ついに立ち止まり、
「千絵さんどすか――」
園どす、お久しゅう。――
と傘の下で、囁きかけた。声がふるえていた。
驚いたことに、尼僧の口許が綻んで、
「きのうはご報謝下さり、有難く存じております」
と、迎えた。聞き覚えのある丸みのある声であった。千絵にはきのうのあの瞬間、旧知と出会ったことがわかっていたのである。もっともお園自身、ひと目で尼僧を千絵と認めた。互いに風霜を経ても、旧知というのはすぐそれとわかる何かがあるらしい。それにしても、おだやかな千絵の応答に、お園は吻っと胸を撫で下ろし、安堵の勢いを籍って、
「あの、なんど、温まるものなとご一緒したいのどすが、ついそこの」
と、たもとの茶店に目を泳がせた。
「ええ」、と千絵は一揖した。そして微笑を湛えつつ、
「いまは妙光と名乗りおります。托鉢の身に重ねての御こころざし、痛み入ります。有難くご相伴に預かります」
昔に変わらぬ深い印象的なまなざしを向けて、いった。
汁物で有名なその茶店の店内は、丁度昼どきの結構な賑わいぶりであった。紺のれんをくぐって、二人は入れ込みの奥まった一画に落ち着いた。笠を解き、小座布団に膝を折った妙光尼を前に、お園は感嘆の思いを禁じ得なかった。白の長頭巾を纏うその顔は、目尻にかすかなしわこそ刻んでいた。が、雪のような肌にのる蛾眉、くっきりとした目鼻立ちは、僧衣ゆえに一層際立って、以前にも増す清雅な輝きを溢れさせていた。
「あの、白味噌のお雑煮が」
と、お園は多少どぎまぎしながら茶店の名物を口にした。そして、
「ここのおつゆ、大きに甘いのどす。甘いけど、おいし」
と、ついこどもじみたことを言った。千絵の唇の両端がまた上っていた。
「ああ、――うちいうたら。京のおひとにいまさら説明するやなんて、恥かし」
お園もはにかみながらも、鉄漿で染めぬ白い歯を見せていた。店は三条大橋のたもとで百年以上も続く名代の汁もの屋なのである。縄手通りに組み紐屋を構え、洛中の問屋まわりに勤しんでいた千絵の、知らぬはずもなかった。
「懐かしい場所にお連れいただきました。ほんにえ、以前のままですこと」
千絵は正面に神棚を祀り、四隅に黒塗りの柱が立つ板敷きの周囲を見渡した。どこも時
間を燻し込んだような、旧家の囲炉裏端のような風霜を帯びていた。
注文を済ませると、
「お久しいことでおます。こうしてお呼び立てできる身やおへんのに」
お園は言い、にわかに首をうなだれた。消え入るようなその姿に、千絵は合掌し、
「きのうお目にかかったときから、きょうあすにも声をかけて来はると思うていました。いいえ、わたしもこうしてお会いするのを望んでおりました」
といった。さらに、静かに吐息を洩らして、
「なにもかもご縁とおもっています。こうしてまた出おうて、出家の身が平静で居られるかどうか、お園さんと再会したそのときこそ、これまでの修行が試される、そう思い定めておりました」
お園の黒髪をみつめていった。お園は額を上げた。
「きょう、このときが、おつとめを試される日。――」
ええ、と千絵はうなずいたが、お園にすれば不意を衝かれる、意外な言葉だった。この長年月、千絵はずっと自分との再会を期していたのだ。
「そう念じつつ勤めおりました」
「そうどしたか。――」
千絵の言葉はお園の心に深く染み入り、あとの句を継げなかった。無論、で、その首尾は、などとは到底訊けはしなかった。
訊けば、千絵の仏徒としての歳月に、土足で踏み込むような、余りに心ない容喙に思われた。というよりも、その実もしや恐ろしい審判を下されるようで、こたえを聴く勇などとても揮うことができなかった。千絵は静謐ないまの佇まいとは裏腹に、夫の心のみか、命までも奪った相手を前に、憎悪と怒りに内心を煮え滾らせているかもしれなかった。
「托鉢には、ご遠路から」
招き主のお園はさりげなくそんなことを訊いた。
「ええ。――雪がこう、歩くと膝まで埋りますの、今頃は」
千絵は法衣を纏う腕を胸の高さまで挙げ、かの地と京との隔たりを物語る。
「山里の小さなお寺です。柴垣を結いまわした小道が、本堂まで続きますの。その裏手は苔のお庭で、そこは墓地。そのどれもがもう大雪に隠れてしまって。毎朝、参道とお墓を掘り出すのが、勤行前のわたしのおつとめ」
千絵は淡々と日常を語る。平静を保っているあかしを示そうというのであろうか。
「おおきに大変なおところどすな、見渡す限り雪景色のお里?」
「ええ、若狭と越前の国ざかい」
「ああそないな遠くへ――」
お園にとって重い事実である。
どのような縁で、千絵は北陸のそんな山あいの寺へ身を寄せたのであろう。京にも尼寺は少なくない。いや、さまざまな宗派が網の目のように地盤を布く信教の都である。むしろいずれの地よりも多いはずだ。わざわざその京を離れ、と思うと、千絵の痛みの深さを、今更ながら思い知らされた。
二十数年前のあの頃、京というこの雅びた王城の地こそ、もみじ葉の可憐な色映えを想わせた若妻の千絵には似合っていた。いまも変らぬそのすずやかさは、雪ぶかい僻遠の地よりも、いにしえ平家の佳人がひっそりと庵を結んだという、大原あたりの清らかな侘び景色こそ相応しいのではないか。
お園の胸は塞がった。
かつを出汁の香りとともに、湯気が二人のあいだにむらがった。折敷に載せた白味噌の雑煮を、店のあるじが「熱うおっさかい、どうぞ、ごゆるりと」といって置いた。あるじの後姿を見送ると、湯気の立つ二つの汁椀をあいだに、お園は思いきって切り出した
「このわたしに、お寺へのご寄進が叶いますやろうか。遠いところからはるばる京へ托鉢にお越しになられたのどす。長旅の苦労の甲斐にも、どうか叶えさしておくれやす」
「それは。――」
「迷惑な申し出どすか」
ゆらゆらと立ちのぼる湯気が、お園の赤みの差した頬を撫でていた。
「いいえ、とても嬉しいお申し出。ですが、わたくしは庵主さまにお仕えの身。みなが庵主さまを仰いで、日がな寄り添うように暮している小さな尼寺ですの。そんなつつましい寺へ、たぶん、お園さんは、事の外のお志しをお寄せになるおつもり。仕え者の身が、分際に過ぎる果報をもたらすのはどうでしょうか。庵主さまのお心を測ると、つい」
「かえって、お立場が悪しゅうに」
「ええ、仏家というても、あるのです、いろいろと」
千絵は眉を伏せた。出家法門といえども、そこには俗世と変わらぬ猜疑や妬みもあるのであろう。料理屋の女将として多少とも京の大寺・小寺を得意すじとするお園に、分からぬ事情ではなかった。
「ああ、気の利かんことどした、冷めてしまいますな、さ、頂きましょ」
お園は雑煮の椀を取った。
「あ、堪忍どす。もう粗相ばっかり。かつおのお出汁はご精進の妨げどした」
互いに椀を干し終わる段になって、お園ははじめて気がついた。
「いえ、お気遣いには及びません。何でも頂きますの。海や山に近い小寺です、魚鳥を断つのは、かえって贅沢な選り好みになります。それに野菜や五穀も生き物でしょ。僧侶といっても、殺生なしに生きられませんもの。とてもおいしゅう、頂きました」
明るく言う千絵の顔には、お園もずいぶん安堵した。ほぐれた気分のまま、
「京にはいつまでご滞在どす。それまでお泊りはどちらに」
と寄進が叶わぬなら、お園はせめてその間心づくしの宿と食事を提供したかった。
「あす托鉢に立てば、明後日は帰ります。京にも少ないながら檀家さんがいらっしゃいますので、寝泊りはそちらか、同宗の尼寺で」
「それならそのふた晩、うちにお宿をお世話さしておくれやすか」
「明晩は、本山でおつとめが」
「なら、今晩だけでも」
お園は食い下がった。
妙光尼の千絵は黙っていた。深い眼差しが凝っとお園に注がれていた。その眸はいつかの記憶を呼び覚まさせ、一瞬お園はたじろいだ。が、声を励まして、
「たとえひと晩なと、どうかご一緒させておくれやす。場所は伏見でちょっと遠おすけど、懇意の船宿どすよって、こころおきのうお過ごしいただけます」
といった。そして、伏見の宿にするのは、家人にはきょうは大坂くだりの用向きにしてある手前で、叶えば、じつは終日ともに過ごすつもりでいた事も打ち明けて、是非今晩、自分に心ばかりのもてなしをさせてくれと懇願した。
「往き還りは、駕籠を誂えさしてもらいます」
最後は縋るような目を向けると、
「では重ねてご厄介をおかけ申しますが、お言葉に甘えます」
静かに千絵はいった。
四
伏見の船宿寺田屋のお登勢は、お園よりひと回りは若い。だが、万事そつなく、宿屋の切り盛り役として、申し分なく気はしの利く女将だった。
「夕方、尼さんがやってきはります。うちにはほんに大事なお人どすの。なにぶん、よろしゅうお頼申します」
と、帳場ぐちで、寒行に立つ千絵よりひと足さきに伏見に着いたお園が頭を下げると、
「あ、それはまんのええことどした。丁度、母屋のおくが空いておます。そこなら、船入りの客衆の邪魔もおへんさかい」
じつのところ、余ほどの事情がない限り、滅多に客貸ししない私的な部屋である。が、深々とした旧知の物腰に、機敏なこの女あるじは何事かを察して、忽ち決断した。
母屋から廊下づたいに中庭を越えた別棟が、そのおくである。
――お呼びのとき以外は、ほったらかしどっせぇ、かんにんしておくれやす。
お園を案内すると、お登勢は細かな気遣いも煙に捲いて、さばさばと、足袋の擦り音も小気味良く、座敷をあとにした。
(水の音が。――)
一人、座敷に残ったお園は、縁に出た。竹管から滴る水を受けて、庭の蹲踞が吻っと潤いのある音を奏でている。
表玄関では、式台や土間の床几に客が溜まり、口々、話の花も盛んに淀川を上下する三十石舟の発着を待っていたが、ここはそんな船宿のざわめきとは途絶していた。
水音を湛えた庭は、丸い踏み石を飛び敷きに、南天や椿、楓、丸く刈り込まれた伽羅木を配して、茶室に誘う露地庭のような、瑞々しい趣をもっていた。
お園は磨き込まれた広縁に立って、
(ここなら心の通うたもてなしができそう)
と千絵とのこれからを思った。
やがて、自ら帳場に足を運び、今夜の料理、入浴、明日の朝食まで、お園は料理屋の女将らしいこまごまと行き届いた注文を言付けた。
日が沈んで、庭の樹が影法師と霞む頃、廊下に楚々とした足音を認めて、尼僧姿の千絵が到着した。広縁で迎えたお園は、
「お駕籠に揺られてさぞお疲れどっしゃろ、おぶなと点てまっさかいに、ひとまず寛いでおくれやす」
とねぎらった。座敷の隅では炉に茶釜がかかって、白い湯気を上げている。他にもお登勢から茶道具一式を借りて、お園は茶の湯の仕度を万端整えていた。
亭主役のお園は、しなやかな手つきで茶筅をさばき、濃緑の一服を客に差し出した。
床柱を背に、千絵は作法どおり茶碗に一礼し、持ち上げると、たなごころで温めるようにして飲み干した。懐紙で口許を拭い終えると、
「ああ、ほたほたとして、身のうちからほんになごみます。結構なお点前どした」
と礼を述べた。
(ああ、京ことば。――)
お園はいままで聞けなかったそれが千絵の口を吐き、真実、うち寛いでいるのであろうと満足した。
「どうどすやろ、もう一服」
「いえ、もう足りました。おおきに十分どす」
やがて寺田屋の仲居が膳部を運び入れた。仲居二人で三台ずつもの膳を積んでいる。
座敷に配された梨地の蝶脚膳には、百合根、生うに、冬瓜の八寸、ぐじの刺身、同じくその蒸し物、車えびと姫さざえの焼物、鰻の八幡巻、酢牡蛎、松茸の土瓶蒸し、鯛の潮汁、鯖寿司など、船宿にない贅沢な献立が盛られ、茶人ごのみの簡素な奥座敷に、一時に豪勢な彩りを吹き込んだ。
千絵に京の味を存分にもてなしたいという、お園の心意気を表わす数々である。
「生臭ものも憚りおへんとお言いやしたさかい、こんな用意になりました。こんやはご出家の身を忘れて召し上がっておくれやす」
とまで言ってしまったのは、千絵の京ことばに調子づいた、お園の失言であったろう。
「常住坐臥みほとけにお仕えしているつもりです。魚鳥は口にしても尼僧であることに変わりありません」
とみつめられた。
言いつつも、合掌して礼を述べたあとは、千絵は目の前の料理を次々端然と口に運び始めた。その食事ぶりは、ひと口ずつを黙々と刈り取っていくようで、このぶんでは料理は残らず千絵の胃の腑に収まりそうであった。接待役のお園としては張り合いのある光景である。
それにしても意外なその健啖に、
(こんなにたくましいおひとやったかしら)
とお園は再会相手の見方をあらたにしたが、あるいは起き伏し厳しい尼僧生活で、いつしか身に付いた線の太さなのかと思った。
膳部は予想どおりきれいに平らげられて、再度の茶も喫し終えた千絵は、充足した面持ちで、
「きょうのお園さん、見事なお拵え。小紋といい帯といい、なんと良うお映りやこと」
と、いまさら感心したように、世辞めいたことを言う。
「そんな。顔が紅こうなります、こんな地味な恰好を」
「いえ、真実洗練された着こなし、同じ京育ちというても、わたしには到底身につかずに終わりました」
譬えようもないほど透明な美しさを湛えた妙光尼が、物静かに洩らす。思い過ごしであろうか、怨み言めいた響きを聞いて、お園は困惑した。なおも千絵は、
「とても真似できません。もともと美しいものを見抜くちからがないのでしょうね。京のはぐれ女です、わたし」
「――そんなん」
愈々お園は困じ果てた。そして、つづいて千絵の洩らした言葉に、お園は蒼くなった。
「佐七がお園さんに心を奪われたのもそのため。――」
お園は息を呑んだ。
千絵の背後に、松古材の丸柱で構えた床の間があり、掛け軸がかかっている。紅梅が痩せた枝にほころんで、気の早いお登勢が、正月飾りに掛けた一幅であろう。余白の中でぱっと花弁が息づいて、引き締まった画幅からはほのかな香りさえ吹いてくるが、一本きりの梅ノ木に、どこかさむざむとした詫びしさも漂った。
お園の目は掛け軸の上を意味もなく這っていた。
(憾みを言うために、今夜このひとはわたしの招きを受けた)
そう思わざるを得なかった。
お園は、にわかに疲れが吹き出し、少したるみの出たような顎を襟に沈めていた。
「佐七の、丹精込めて結い上げていく色やかたち。その良き理解者ではなかった、わたし。一日一日身を削るようにして、ついに思いの丈の組み紐が出来る。わたしはそれを喜ぶだけで、真実、あの人が吹き込んだ、命がけの美しさまでしっかり胸に畳み込んであげるまでのことは叶いません。そう、佐七は寝ても覚めても、糸組みの夢をわかちあえるお方を求めていました」
佐七の名が、千絵の口を吐いて出るたびに、お園はみぞおちに撞木でも押し当てられているような、重苦しい鈍痛を覚えた。
「あの日――」
と千絵はさらに続けた。
「あの日、佐七とお園さんが抱き合うていたとき、わたし、こなごなに打ち砕かれました。けれど、いずれこんな事態も、と予感もしていました」
激情に駆られて、とはいえ、千絵の留守を狙って、泥棒猫に等しい行為だった。あの時、敷居ぎわで棒立ちに立ち尽くしていた千絵の耳には、お園の身繕いの音などは聞こえず、がらがらと自身が砕け散る瓦礫の音のみが雪崩れ込んでいたのである。
すでにお園は覚悟した。
(もっと責めておくれやす。――)
再会はこのためにこそ果たされるべきだったのである。もとより逃れられる罪ではなかった。
うすく千絵が予感していることさえ知りつつ、敢えて犯した罪である。千絵の惧れを嘲笑うように、しだいに足繁く、鬼神のように大胆に振舞っていた。その自信を裏付けたものは、いま千絵が言ったとおり、そう、
――うち以上に、佐七さんの技量に心うたれる人などおへん。
と確信していたのである。同じこころはきょうの装いにも、あるいは働いている。いかに地味に拵え上げようと、鮫小紋にも紺繻子の帯にも、自惚れに充ちた己のはからいが篭められていないとはいえなかった。
と顧みれば、お園は羞恥のあまり、いっそいま、お登勢に鋏みでも借り、身に着けたものをこの場でずたずたに切り裂いてしまいたい衝動に駆られた。
「お園さん、わたし仏門に入り、墨染めを纏う身になって救われました。――学道の人衣糧を煩うこと莫れ、――と先師のお言葉にもあります。京おんなを捨てたいまは、なんの容態ぶりも要らんの」
「どなたよりお美しい尼さんどす」
お園はやっとうわ言のように言った。
夜も更けて、千絵に入浴を勧めたお園は、自身も別の湯ぶねに身を浸していた。
(あれは、尼さんならではの正直な在りのままの告白)
岩湯壷にもたれ、ぼんやり考えていた。緩慢に手拭を這わせ、肩ぐちに湯を当てていた。
妙光尼の千絵がいったことは、なんの含むところもない、すべて率直な思いの吐露であろう。千絵は自分自身について言っただけなのだ。
ゆったりと湯に浸かっていると、その一言ずつに一々気持ちを動顛させているのはいかにも愚かしい態度に思えた。
湯が薬効をもたらすように、お園の心身を解きほぐしている。
あとはこの静かな夜を、千絵と枕を並べて寝るだけの時間が待つのみである。
湯滴が肩骨を伝い、汗粒を載せた豊かな胸の隆起へと下っていく。ふと、
(針療治の跡は、どうしよ)
とおもった。明日、その形跡のないからだで帰宅することになる。夫の勘十郎はどう思うであろう。
知らぬふりをしながら、あるいは佐七とのことさえ、すべてを知りつつ、知らぬふりを決め込んでいるような夫であった。
明夜、勘十郎は首筋や腰や股、どこにも針跡のないこのからだを抱いても、そこに唇を這わせるだけが関の山で、よもや不審を問い質すような真似はしない。そんな夫なのである。お園もまた、今まで夫に穿鑿の目を向けるようなことはしたことはなかった。長年連れ添っていながら、互いに決して踏みこまない領域を、暗黙のうちに作っている夫婦であった。
といって、一夜でも留守にした妻を放って置く夫ではなかった。臥所に収まる頃合いに至れば、勘十郎はお園の夜具をまくり、がつがつと湯もじを解きにかかって、夢中で貪り抱くにちがいなかった。が、お園は決して拒まない。それが今までも、何よりの、勘十郎に対する身の証だてのようになっていた。
(ちょっと春先の袷ものを)
夫には、気が変わって針医の元には寄らず、道頓堀の呉服だなをひやかし歩いていたとでも、言えば言い繕えるであろう。
お園は湯から上がり、今夜は床に就くだけのからだを丹念に拭った。
浴衣に細帯、その上に被布を羽織って、底冷えする廊下に火照ったからだを心地よく運んだ。そして、部屋の障子をあけると、思わず身を退いた。千絵が先に戻り、剃髪を露わに座っている。一瞬その円いあたまにどきりとしたお園であった。
だが、白絹をまとって端居する姿は、類なく気品があり、あたりに光芒を放っているようで、直後は驚きも忘れてつくづく見惚れてしまった。
「お園さん、雪が――」
降りだしたというのであろうか、縁に佇むお園の背後を窺い、ふいに千絵は無邪気な声をあげた。雨戸はすでに閉て切られ、お園が振り返っても、外の様子はわからない。曖昧な笑顔を向けているお園に、
「気配でわかるのです。長年の雪国ぐらしで、身についた勘。ほら、庭の葉音が止んでいます」
と、千絵は座を立った。
雨戸を繰ろうと、廊下に進み寄る千絵の腰に、茜色の平緒が巻かれていた。
お園は何気なく目をとめた。
霰と散る白糸と黄糸の波頭。床しく見え隠れする厳頭のような繰り返し模様――。
またたく間お園の目に、紫や緑、白や黄の糸ぐみが、渦を巻き、嵐のように押し寄せた。
お園の執拗な無心から、非売の禁が解かれて、佐七との運命的な出会いを生んだあの組み紐であり、果ては、佐七と心中を企てたその時、自らの首に結わえ、浄土に旅立つ道具とした因縁の組み紐だった。
五
「ああ、やっぱり。――」
千絵が引いた雨戸のすき間に、てんくと舞い降りる雪が夜の闇をあざむいていた。勝ち誇ったようにお園を振り返る千絵に、
「そ、その、組み紐――」
お園は狼狽の声をあげた。「ええ」と千絵は、縁をきしませて向き直り、
「これは佐七の形見、他行のときも肌身から離しません。そう、しばらくはお園さんのもとにありましたね。ですが、戻ってからはずっと」
という千絵の目はわらっていた。そして、
「この組み紐は、佐七の懐にありました。水から揚がった酷たらしい姿のね。あの人だけがあんな最期になって、お園さんだけ生き残ったのは、どういうわけあい」
と、眸を据えてさらに近づいた。
お園はじりじりと後退り、敷居を踏み、畳を擦って、
「ほ、ほんまに、真実、死ぬ気どした」
叫ぶと、畳の上にくずれ、
「佐七さんだけ死なすつもりは毛頭おへん。一緒に命を断ってこそあの世の夫婦。うちだけ生き残ったのは――」
「そう、お園さんだけが生き残ったのは――」
千絵は敷居を跨ぎ、後ろ手で障子を閉じて、激しくかぶりを振るお園を見下ろした。
「さ、佐七さんはわたしの首に」
その場所は、大津の北、堅田の入江。
琵琶湖の葦原が迫る岸辺には、ぽつりと掘っ立てられた一軒の舟小屋が、戸板も朽ち落ち、心中を図る佐七とお園を待ち受けていた。たどり着いた二人の、浄土のとば口がここだった。
舟小屋の隙間だらけの崩れかけた板塀にもたれかかり、お園は自ら解いた帯締めが、佐七の手で首にかけられるのを待っていた。
「佐七さん、晴れて夫婦に」
目を瞑り、両掌を合わせ、お園は口辺に笑みさえ漂わせていた。
「お園、お前が一足先になるが、きっとお浄土で出迎えてくれ」
と、佐七の手がまわり、咽喉笛で交差させ、ぐっとお園の首に食い込むはずの平緒の帯締めであった。それが、空しくお園の胸元に垂れた。目を開いたお園に、
「あかん。お前が先、わしが後では、三途の川でひょっと互いが別の方角に踏み迷うかしれん」
死ぬのも同時にと、お園を抱き寄せ、佐七は崩れ落ちた板塀の向うを顎で指した。葦原の茂みに舳先を覗かせ、小舟がひっそりと舫っていた。
それからあたりを掻きまわし、見つけた舟釘の山から、詰められるだけの釘を自身の袂に押し込んだ佐七であった。湖中に投じた身を、水底に止める絶命のための錘である。
櫓を操り、小舟を進めていた佐七が、艫に寄り、お園を抱いた時には、群青色の幔幕が展べられたような湖面に、黄金色の波紋がきらめいて、遠く湖岸の浮御堂が、薄紫の夕景に宝形の屋根を浮かべていた。ぽちゃりぽちゃりと長閑に繰り返す波音が、湖北の沖の静けさをいや増していた。
「お園、行くか」
この世での、佐七の最期の精を体腔に受けたあと、お園は佐七と自身のからだを、舟床に解き乱れた帯を取り、抱き合う一つからだに巻きつけた。
「佐七さん、南無阿弥陀仏どす。どこまでも一緒の」
「おう」
と佐七は片足をかけて船端を揺らし、三度目の揺り返しに船縁が湖水を呑んだその時、胸懐に更にお園を掻い込んで、二人抱き合ったまま横様に、滑るように湖中に落ちて行った。
暮れなずみ、黒く翳る湖面に、しばらくは、消えては湧き上がるあぶくが絶えなかった。
それからどれほどの時間が刻まれていたのか、漁師小屋に横たわる自身を発見したとき、お園は悲痛な叫び声をあげ、夢中で夜具を跳ね除けていた。が、いくら上体を起こそうともがいても、背中に膠でも貼り付いているようにからだが持ち上がらず、空しい焦りに苛まれた挙句に、精魂尽き果て再び眠りに落ちた。
と目を見開いたお園は、枕もとを取り囲む男女の顔をおぼろげに見た。やがてまわりが鮮明になると、突如半狂乱で泣き叫び、何人もの手に押さえつけられた。
のちに聞いたが、お園は目覚めるたびに、「あの人が待ってる」とうわ言をつぶやき、よろよろとからだを起こしては出口を求めて抗ったという。不寝番で集まった漁師やその女房たちは、また湖に出ようとする哀れな女を、その都度力ずくで寝床に臥し直らせた。
彼ら堅田漁民の三日三晩の手厚い看護の末に、お園はひとり京への帰路に就いた。
葦原に打寄せられた佐七の遺体が発見されたのは、それから半月も経たのちである。
「最期まで一緒に死ぬ気どした。水の底でずっとうちは佐七さんの胸の中に。――」
お園は何の誇張も交えることなく、洗いざらい千絵に告白している。
「誰も窺い知る由もない湖の底のお話」
千絵は皮肉に言い、唇の両端を上げて、憐れみとも冷笑ともつかぬ表情でお園に報いた。お園は眸の底から悲しみがせり上がるような眼差しで、
「不義者、心中者と嘲られ、罵られても、二人で暮せるのはあの世だけ。誰に分からいでも、互いの思いは寸分違いまへん。水の底でも、佐七さん、強う抱いておくれやした」
振り絞るようにいった。たとえ千絵でも、佐七との誠だけは疑われたくなかった。
「この世への未練は金輪際なかったと」
白絹に包んだ胸を上下させて、千絵は明らかに怒りに震えていた。その姿は物語っている、千絵には是が非でも、お園が最後は佐七を裏切った女でなければならなかった。
「お浄土だけが憧れどした」
お園が力なく言うと、しらじらしい嘘をと言わぬばかりに、目を閉じた千絵である。お園は足掻くように身をせり出し、さらに自身を暴露していた。
「うちは臆病者どす。きのう、千絵さんと会うて、当ても無う彷徨い歩いたすえに清水の舞台にたどり着きました。いっそ、ここから、と思うても、どうしてもこの身を……。足もとの景色を見て、震えているだけの意気地の無い女どした。けど、誓い合うたお人と二人なら、臆病者でもよろこんで、つかの間の地獄に耐えて見せます」
「それでも死に遂げたのは、佐七ひとり」
「そうどす、うちだけが水に浮かんで、生き恥を晒す羽目に。互いに離れるまいと、きつう縛った帯どしたが」
「そんな弱帯やのうて、もともとのご縁となったこれ、佐七が丹精のこの組み紐にしておくほうが良かったかしら」
千絵はちらと自身の腰に目を注ぐと、艶然と微笑んだ。山形が反復するその組み紐の紋様をみつめながらお園は、
「不義を犯した二人に天罰が下ったとしか、なんでうちだけが死なせてもらえなんだのかはわかりまへん。互いにあの世で未来永劫一緒に暮らす、ただそれだけが願いどした」
「仮令、水の底で別れ別れになろうと、二人の絆は最後まで結ばれていたと」
千絵の眸に怒りの火が宿っていた。お園は唇を噛み、歯軋りするように洩らした。
「生き残ったことが悔しい。その紐を解いて、もう一度うちにおくれやす。うちに首を括らせておくれやす」
千絵ははっと息を呑んだ。瞋りの眸がみるみる溢れ、やがて唇を震わせ、
「怖おうなりました、死にきれなんだ、佐七の腕を振り解いたと、なんで言うておくれやないの」
悲痛な叫びをあげた。さらに、
「琵琶湖の底より、海の底より、お園さんより、誰より佐七への思いはこのわたしが一番深いはず――」
千絵はすべてを吐き出したようにぐったりと肩を落とし、首をうなだれて、それからは止め処も無い嗚咽の声を洩らした。肩をわななかせ、千絵はひたすら悲嘆の境に没して泣いた。
長い夜のしじまに、そぼ降るようなすすり泣きだけが続いた。お園の手が、いつか畳みに崩折れる千絵の手に重なっていた。お園も共に声を上げ、泣いて詫びたかった。が、敗北を受け容れ、打ちひしがれる千絵に、謝罪などなんの慰めにもならないのはわかっていた。ややもすると口を開きそうになる自身を、お園は懸命に抑えた。
やがて千絵の声がやんだ。濡れそぼった顔を上げたときは、染み透るような笑顔を浮かべていた。
「修行の甲斐もない愚かな女です。仮初めに墨染めを纏う、まやかしの仏の弟子でしかなかったのですね、わたし」
頭をまるめたすがたの悲愴は、清浄で可憐な魂そのもののようにお園に沁みた。
「千絵さん」
哀憐がいっきにこみ上げ、お園は千絵の手を何度もさすっていた。
ふた流れの夜具に隣り合い、時に合槌を拍ちながら、飽く事の無い千絵の思い出話にお園は凝っと耳を傾けている。
寝床に収まった千絵は、京でのあれこれを語り、別人のように屈託がなかった。
雪の日、嵯峨野の大覚寺に参詣し、赤い寒椿が得も言えずに綺麗だったこと。祇園ばやしのもみじを狩り、家に持ち帰って煮出して手巾を染めたこと。四条河原の夕涼みで屋台の粟餅がおいしかったこと。丑の日の胡瓜封じの病除けでは、川流しにして祈願する胡瓜を、こっそりと集め、樽に漬け込んでお菜にしてしまったことなど、他愛もない京での暮らしの小景を、掌で温めていたものをひとつひとつ取り出すように、千絵は慈しみを込めて縷々語った。
聞きながらお園は、
(千絵さん、やっぱり京が恋しおすの)
としみじみ思っていた。寄る年波はなおさら望郷の念を募らせるであろう。そしてお園もまた、桜の頃の京の華やぎを待ち遠しく描きながら、
(千絵さんがまた京で暮せるような、いつなんどきでも気安う使える住まいを用意しておいたら、きっと)
償いの一端にもなろうと、ようやく心を決めていた。托鉢に下向するときでも、また仮に還俗の気持ちが兆した時でも、京の住居は千絵の老後に大きな拠り所となるにちがいなかった。
そう思い定めると、、お園は、千絵が京に在るあいだの明日じゅうにも、手早く心当たりを当って手配りしてしまおうと夜具の下で胸を逸らせた。
無論、そんなことで決して過去が帳消しになるものではないと自戒しながらも、お園は、
(どうぞ、そうさしておくれやす)
と祈るような思いで顔を振り向け、傍らの枕もとを覗った。だが、いつの間に沈黙していたのか、千絵は安らかな寝息を立て、虚心な眠りに就いていた。
六
翌朝、出立の玄関に立つと、寺田屋の沿道も浜も踵を埋めるほどの雪に覆われている。川岸の柳も雪のれんのように枝垂れ、見渡す限り目も覚めるような白一色である。
「京の雪はやさしげ」
千絵がつぶやいた。駕籠待ちで、手甲履きの腕に不要の笠を抱えている。
北陸の立ちはだかるような積雪と思い合わせているのであろう。慕わしげにみつめる先に、運河を跨いで小橋がかかっていた。行く人もないささやかな橋は、こんもりと雪化粧をした欄干を川面に映し、ひっそりとこころに沁みるほど美しい。お園もそのうららかな佳景に、優しげらしい、京の雪を感じることができた。
(目に焼き付けようとしてはるのどっしゃろな)
千絵のすがたはお園の企図をいっそう後押しするようであった。駕籠が到着するまでの間、名残を惜しむようにしばし橋の景色に見惚れていた千絵である。
それぞれに洛中を目指す駕籠に乗り込んで別れたあと、いったん帰宅し、着替えを済ませたお園は、取るものも取りあえず、東山に寮宅を構える得意筋を訪なった。
材木問屋のその後家は、
「六角どすけど、最近、空き家になったうちの家作がおすえ」
と打てば響く調子で、住まい探しに応じてくれた。
東洞院通り六角という町なかにあるその家は、表構えは格子づくり、内には走り土間を渡した間数三つのこじんまりとした仕舞屋で、先日、借り手の老婆が亡くなり、無住になっていたところ、貸しても譲ってもいいという。お園は即座に買い取りを申し出、裕福な女同士、話は簡単に即決した。
女あるじに見送られ、お園は弾みきった気持ちで閑静な露地庭を歩み、風雅な建仁寺垣を結いまわした木戸を出た。ときどき降る雪は、いまは止んでいた。青蓮院門前のゆるい坂道を下ると、降り積もった雪が爪掛けに上がり、さくさくと軽快な足音を刻んだ。千絵に、一刻も早くこの首尾をしらせたかった。
(余計な世話、と断られてもどうでも)
であった。また、千絵がこの家屋に住もうが住むまいが、もはや拘泥しない。ともかく、千絵がいつでも京の暮らしを送れるよう、拠り所ともいうべき場所を一生涯保障し続けられればお園の本望であった。
寺院や金持ちの寮の石垣に挟まれた坂は、粟田の森を南北に穿ちながら続く。遠近に雪を被る楠が茂って、陽ざしにまばゆくそびえている。抜けるように高いその光景を、額に手をかざし、お園は晴々と見上げていた。
ひさびさに若やいだ気持ちになっていた。雪道にころばぬよう、用心ぶかく足を運んでいるつもりのお園だったが、心は托鉢に立つ千絵のもとへと逸って、踏み出す蹴出しについ小雪を舞い上げていた。
石垣が尽きて、三条大橋まで、通りを西へ向うその道のりももどかしい。が、
(年がいもない。――)
と自嘲するお園の眉は晴れて、ようやく過去を脱した思いに満たされていた。踵を着け、歩幅を詰めて、徐々に雪道を行く要領を覚える足取りと共に、一夜、千絵と投宿したことが、間違いでなかったとあらためて噛みしめている。互いをさらけ出した昨夜のことを乗り越えて、無用の憶測を脱した新しいあゆみを始められそうであった。
やがて、鴨川にきらきらと絹綿のような雪を架け渡す三条大橋の長い架構が遠望できた。お園の胸が躍った。待ち受ける彼我を繋ぐ白い目標目指して、つい浮き足立った。
ようやくなだらかな勾配にさしかかったときは、のめるように足を止めていた。
擬宝珠の傍らに、托鉢するはずの千絵のすがたはなかった。
橋詰には、きのう千絵と入った汁店のあるじが、玄関の寄り付きで背中を曲げ、盆を手に床几の上を片付けていた。お園は近寄った。
「あのもし、橋のほとりで、ここ二、三日托鉢の尼さま、きょうはどうおしやしたろ」
お園の問いかけに、あるじは仰天の顔を上げた。
「知りはらしまへんのか、えらい騒ぎを。尼さん、けさ、首吊んなはったんどっせ」
轟っ、とお園は耳底に暴風の吹き込む音を聴いた。同時にその一瞬の風に煽られるように、くたくとその場に膝を着いた。辛うじて掴んだ床几の端に、力なく額が拠りかかった。
「大丈夫どすか」
あるじはお園を抱え、床几に掛けさせた。
「医者、よびまひょか」
「いえ、ちょっとした立ち眩みどす。じっとしてたらじき治りますよって、しばらくこのまま掛けさしておくれやす」
やっといった。
「そら、よろしおすけど、ほんまに大事おへんか」
「大丈夫どす、何ともおへんさかい」
「よろしんかいな。――ああ、おたくはん、きのう、尼さんとお二人でお越しどしたな、ご縁者はんで」
「いえ。ほんの――」と、お園は詰まり、
「ほんの行きずりどす。志しのつもりで、お誘いを」
と自身思いがけない返事をしていた。
「そうどすか、それはまぁご奇特なことどした。ええ、そうどすがな、あの尼さん、けさも確かにあの擬宝珠の袖に立ちはりましたがな」
店は暖簾掛けする前で、と、あるじは身を乗り出し、又候興奮がぶり返したような赤い顔で語りだした。台所の格子越しにけさも尼の姿を垣間見たあるじは、だし取りの準備を始めて手元が忙しく、再び格子を見上げたのは、騒ぎの声が上ってからという。
おもてに飛び出して、川端通りを挟んで見た尼僧は、欄干に掛けられた紐を首に、橋げたに背を付けて、だらりとうなだれていた。その瞬間こそ目撃しなかったが、欄干を越え、橋から飛び降りた尼僧は、鴨川に水声を上げることなく、首を吊ったのである。
橋会所の人足たちが駆け付けるまで、尼僧は宙吊りのまま、しばらく遠巻きにする通行人の目に晒されていたという。
「気の毒に、せんど人目に晒された挙句どした。ご遺体はお役人衆の検分のあと、本山の筋ちゅうことどっしゃろか、上京にある天台宗の尼寺が引き取らはったということで。何にしても、尼さんが首をくくるとは、ほいないこっとすな」
汁店のあるじは感に堪えぬように何度も首を振った。
「あの、紐て、どないな」
お園は訊いていた。ふわふわと雲間に漂うような、紙のような無表情である。
「ひも? ああ首括った紐。――そら遠目のことで、良うはわかりまへんが、そう、紅うて、何やきりりとしたもんどしたから、あれは、組み紐やおへんか」
お園は愕然とした。全身の血が、足もと目がけ落流するようだった。平静には見えたが、床几に手を添え、やっと腰掛けていた。
声がかかって、あるじは暖簾の向うに引き取った。お園は床几に変わらぬ姿勢でいる。茫然とただ橋を眺めていた。いったん止んだ雪が、また音もなく降り始めていた。
擬宝珠を少し離れた位置で、高欄が雪を除け、桧の地肌を見せていた。その刹那、千絵が手をかけた場所であろうか。お園の腰が浮き、手繰り寄せられるように近づいて行った。
高欄に達し、湿った丸木に手をおくと、凍るように冷たかった。手をそのままに、お園は橋桁に目を落とした。千絵はこの位置で、一瞬でも見たであろうか。磧も中州も白く覆われて、ひたすら清冽に流れている鴨川を。
やがて、托鉢する千絵に倣うように、お園は橋の往来に向き直った。
飛び交う雪が、往還をほの青く霞ませて、橋上の景色はまぼろしを見るように美しかった。千絵がこの場所に立ったとき、雪は舞っていたろうか。そうであれば、けさ、伏見で飽かずに眺めていたあの景色より、長年親しんだ洛中の橋に降る雪に、千絵はなお魅せられたにちがいなかった。橋の雪はすべてを美しい幻影に変えている。この限りない静寂を目に収め、ふと千絵は一生が充ちたのではないか。
(そう、きっと。――)
そう思いたかったし、そうであることを希った。千絵の死は、決して復讐の仕上げなどであろうはずはなかった。
そう思いたく、お園は橋の上に立ち尽くしていた。
(了)