読む古典落語・文七元結
あらすじ
本所達磨横丁の左官屋・長兵衛は、名人の腕もそっちのけで博打にうつつをぬかす。挙句、暮れのやりくりが着かず、夫婦の縁を切って、女房が奉公に出るという始末に。見かねた娘のお久は、吉原に身売りをしようと、角海老の女将を頼る。女将は長兵衛を呼んで諭し、五十両の大金を貸し付けるが、まじめに働いて返済を終えるまでは、娘を預かるといい、半年の期限を過ぎれば、娘のお久は客を取ることになる、と宣告される。
後悔と改心の誓いを胸に、吾妻橋を渡る長兵衛。そこで、いままさに、川に飛び込もうとする若い男を見、あわてて押し止める。その若い男は、文七という商家の手代。主家の大金五十両を掏られて、もはや死ぬ以外にないと思い詰める文七の、命には代えられぬ、と懐から五十両を出す長兵衛。
大団円は名代の元結創業の、まことにおめでたい一席。
左官。しゃかん屋、なんどと呼べば、威勢がヨロシイようで。
よくよく文字をながめてみれば、左の官、と何やらゆかしいその呼び名。本来のそのむかし、律令という旧い時代には「沙官」という文字が当てられていたというから、この噺の主人公も、さかん、ではなく、威勢よくしゃかんの長兵衛と呼んでやりたい。
土蔵の戸前口の仕上げなどは、この長兵衛がやると、戸枠と壁のあいだがぴったり寄合い、火の入る隙は微塵もないし、その上真っ白な壁肌は鏡のような平らかさであった。名人、なのである。
だがしかし、江戸から明治にかけてのカノ入江長八、通称伊豆の長八という、日本橋茅場町は薬師堂の左右の御拝柱に昇り竜、下り竜の鏝絵を施して名を上げた、大名人ほどではない。まぁ、本所深川、それに吉原あたりでは充分名も知れた名人とでもいいましょうか。
そのこじんまりには、多少のわけがある。というのが、この長兵衛、博打に嵌って仕事ひとすじ、とはいえない。改心した晩年には、文句なしの名人とひとから讃えられたが、この物語は長兵衛が文句なしの名人になる前の、こじんまりの時期。賭場通いで三年このかた仕事もうっちゃらかして、米びつの底が始終覗いていた時代の長兵衛の噺。
ちょうど暮れの二十八日という押し詰まった日、本所達磨横丁の長兵衛の所帯はもうにっちもさっちもいかない。勇んで賭場に出かけたものの、身ぐるみ剥がれた長兵衛が、半纏一枚の空っ脛で家に帰って来たその夜、四畳半の隅で、女房が明かりもつけずに泣いている。
「なんだ、おめぇ、陰気くせぇ、どうしたってんだ」
「どうしたもないよ」
訊いてみると、十八になる一人娘のお久が夕べから帰らない。女房は「八幡さまにも、木場にも行ってみたさ」というが、
ほうぼう探し歩いても見つからず、心配やら不安やらで泣く泣
く戻って来たという。
「―そうかぁ、そいつぁ、また」
あぐらに組んだ膝を掻いて、長兵衛もさすがに気が気でない。
「こんばんは」
選りによっての急場の訪客に、半分虚に入った顔つきを土間に向けると、
「お、藤助さん、お珍しい、今晩はまた……」
まったく珍しい訪客は、吉原の大籬角海老の男衆で、長兵衛が土蔵の戸前口に職人のいい腕を見せて、すっかり角海老の気に入りとなって以来の顔なじみ。
藤助は膝小僧まで跳ね上がった泥を払いながら、
「いえね、女将さんが長兵衛さん、お前さんに会いたい、ってからお迎えに……」
「女将さんが? いやそれならすぐにでも飛んで行きてぇンだが、生憎、取り込みごとがございやしてね」
長兵衛が煮え切らない返事をすると、
「その取り込みごとってぇのは、お久さんのことじゃござンせンか? 」
「―そのとおり、そうなンで」
「昨晩から、手前どもに参ってなさるンで」
「エッ、そうでヤすか」
ということで、長兵衛「あとで駆けつけますから」と、ひとまず藤助を帰して、あとはあぐらをかいて、い草の畳表が擦れて、藁床が露わになった畳の破れ目を膝小僧をこすって眺めている。
「どうしたのさ、お前さん、早く女将さんのところに行かないか、お久が居るンだよ、サ早く」
「早くって、お前、こんな裸半纏一枚で行けるかよ」
「それゃ、お前さんが、博打で擦って、元も子も無くしちまってきたンだから、仕方がないさ」
「仕方がねぇって、お前。おい、お前のきもの」
「きものって、お前さん、わたしのを。そしたら、わたしゃ、なに着るのさ」
「お前は、おれのサ、おれの半纏着てればいいやな、な、腰巻の上に着てればいいんだ」
「腰巻の上にって、腰巻洗っちゃってあれゃしない」
「変な時に洗うなよ、ったく」
舌打ちして、女房の腰の辺りを眺めるでもない視線を送って、
「―じゃ風呂敷、腰に巻いてろよ」
「いやだよ、紋が付いてんだよ、あたいの風呂敷」
「紋付きの腰巻かい、結構じゃねえか」
「いやだよ」
無理矢理女房の着物を剥いで、京町の角海老にやってきた長兵衛、裏木戸をくぐり、奥の間の土間に進んで、腰をかがめて声をかけた。
「ええ、こんち、ご免なさい」
「ああ、長兵衛さん、こっちへお入りよ、ずいぶん久しいじゃないか」
「どうも、すっかり、女将さん」
長兵衛はかまちに手を掛けて、長火鉢の灰を火箸で掻いている女将さんに長らくの無沙汰を詫びた。
「ま、お上りったら」
座敷に上がった長兵衛が目にしたのは、神棚の下でほっそりした肩を落として座る娘のお久。
「何だっておめぇ、何も云わねぇで出ちまった。おっ母ぁが血まなこになって捜しまわったンだぜ」
娘のすがたにホッとしながら、小言を吐かずにおれない長兵衛だが、当の娘は肩口を掛け継ぎした木綿縞というテイタラクである。
(女将の家にとんだ身形で来やがった)
と思うと、また腹立たしい。江戸っ子気質でつい口に出た。
「なんだよあめぇ、お女将さんの家に。もっとましな着物がねぇのか」
「およしよ」
女将が聞きとがめて
「お前さんだって、何だかおかしな身形じゃないか」
「へぃ、これゃ」
黒の半襟をかけた格子木綿で、その上袖短かで、肩身も細い。窮屈そうな女房の着物を着て、いっそう身を縮める長兵衛に、女将は、口辺に艶っぽくも見える嗤いを浮べて、
「お前さん、近頃商売替えしたっていうじゃないか」
「いえ、あっしは左官屋でこのかた」
「嘘だよ、屋根屋になったって云うよ。もっぱら、めくってばっかの長兵衛さん」
「あ、これゃどうも」
あたまに手を置き、小さい髷をしきりに扱く左官屋に、女将は火箸を灰床の隅にきちんと挿し直してから、本題を切り出した。
「お前さンちに藤助を遣ったのは、ほかでもないンだけど。夕べ中びけの頃合いにさ、訪ねて来たのさ、この子、女将さんご無沙汰いたしました、って」
とお久を振り返る。
「不意だったからね、あんたは? と訊くと、長兵衛の娘です、って云うだろ」
長兵衛は長火鉢の胴の、欅の木目を眺めて神妙に聴き入っている。
「ああ、よくおとっつぁんにお弁当届けに来てたあの子、と思い出してね」
「へい、弁当の出前は手前が家の躾け、でして」
「馬鹿だよ、重宝口だよ。ま、大きに器量佳しの娘になったねって云ったら、可愛いンだよ、赤いかおしてうつむいてね」
それにしてもこんな夜更けての訪問である。女将が訝しむと、お久は云ったそうだ。
「親の恥を明かすようですが、家のおとっつぁん、三年このかた仕事をせず、賭け事ばかり。家のなかは火のくるまになって、おっかさんと喧嘩ばかり。この暮れにはやりくりが着かないから、夫婦別れして、おっかさんはどこかに奉公するンです」
そして娘として何とかしなければ、と思い、自身身売りした上は、そのおカネをおとっつぁんに渡したい、
「どうぞ、わたしを角海老に引き取ってください」
と女将にすがったのである。
うなだれて聴く長兵衛のあたまごしに女将が、
「これくらいの年ごろは、あれが欲しいの、これが欲しいって、身勝手なもンさ、なのに思い詰めて、なりふり構わずサ……。しっかりおし、長さん」
「面目ねぇ」
頭を掻く長兵衛を凝っと見据えて女将は、
「で、お前さん、いったいこの暮れ、いくら有りゃ越せるンだい」
といった。
「へぇ、ほうぼうから貸りて居ます」
「おおかたそうだろう」
「そいつらに返してまわるとすると……」
「そうだよ」
「その上、質に置いた道具箱も取り返さなきゃなりません」
「そう、それも」
「て−と、三十両有りゃ、どうにかこうにか、へぇ」
ふーむ、とうなずいて女将は、煙管を口に一服呑んで、火鉢の縁に、ポン、と雁首を打って灰を落とし、
「じゃ、五十両貸そうじゃないか」といった。
「え、そりゃどうも」
長兵衛、女将の太っ腹に言葉も継げない。
「いつ返す? 」
この辺の呼吸がさすがに大籬の女将である。
「左様です、七草までに」
「いい年して、せっかちだよ。そんな出来もしない意地張ってどうするンだね」
女将はかたわらで、目を伏せているお久を見て、溜め息まじりの微笑を洩らした。
「半年だよ、半年後、来年の盆まででいいさ。いっぺんに返そうたって無理だからね、盆までのあいだに、わずかずつでもわたしンとこに入れたらいいさ、そうして預かっといてあげるよ、いいかい」
「へぇ、それゃもう」
「でね、そのあいだ、この娘、あたしの手元に置いて、いろんなこと仕込んどいてあげるから、娘の心配なしに精出しておくれな」
なにからなにまで女将に膳立てされて、長兵衛はグゥの音も出ない。
「お前さん、長兵衛さん、あんたは鏝を取ったら、江戸じゃ右に出る職人がないほどの名人なんだからさ」
しっかりおやりよ、という言葉を服んで、女将は帳場に立って行き、ほどなく戻ると、手にしたものを長兵衛の前に置いた。
切り餅がふたつ、二十五両づつを和紙で包んだ包金である。
「持っておいで、長兵衛さん」
「ありがとうごぜぇやす」
職人のごつい手で切り餅を掴んで、長兵衛はふところに蔵おうとする。
「あ、それじゃ不用人、途中で落っことすよ」
と女将は、背ろの小箪笥から、織りの財布を取り出した。
「これあたしの着物解いて縫ったものさ。お前さんこの財布出して見るたびに、思うンだよ、角海老の女将にこうこう言われたって」
財布に蔵われた五十両。このカネをまたぞろ賭場の出入りで、使い果たしてしまうような具合なら、女将は騙されたことになる。そうなれば女将のつもりでは、親思いの孝行娘はきっと見世に出す、と達て引きの上は、
「挙句に悪い客に当たって、娘のからだに不憫でもあれば、長兵衛さん、きっと天罰がくだるよ」
「へい、手前じゅうじゅう料簡しまさぁ」
「精出して働くンだよ」
「へい」
五十両をふところに、長兵衛が吉原の大門を出たのは大引け過ぎ。紅灯弦歌の里も鳴りを潜めて、往還は肩をすぼめて帰路をゆく人影を置いて、いよいよひっそりとしている。
日本堤から花川戸を経て、吾妻橋に差しかかった長兵衛は、
(ああ、おれってぇ奴ぁ、なんて親だ)
自業自得で手の内の玉を取られ、悔み重なるため息を吐きつつの道のりである。
長兵衛がとぼとぼと吾妻橋のなかほどまで来たとき、縞の着物に紺の前掛け、年ごろ二十一,二の若い男、帳付けのためであろう矢立てを帯に差して、どこかの手代らしい。欄干に手をついて、片足をいままさに掛けようとしている。
「お、待ちねぇ、だめだよ」
声を上げて、長兵衛は若い男の元に駆け寄り、職人の腕力で羽交い絞めに抱きとめた。
「放してくれ、放しておくンなさい」
若い男は肩を振って激しく抗う。
「馬鹿野郎、放せるもンけぃ」
長兵衛はぐいぐい力を込めて抑え込み、徐々に若い男を欄干から引き剥がしたあかつきに、「このぅ」と思い切り平手打ちを喰らわした。
「なにすンです。アー痛い」
大平手を喰って、若い男は情けなくつぶやき、紅い手形の付いた頬をさすっている。
「死のうって奴が、痛ぇも糞もねぇやな」
云う間に若い男は欄干に寄り、片腕を支えに、ふたたび足を掛けようとする。その腕を掴んで長兵衛は、もう一度「馬鹿野郎」と平手を浴びせた。
「無茶を」
若い男は頬を腫らして、涙目になっている。
「無茶は手前ぇよ、どうだ、どういう理由だ、わけを云ってみねぇ。成程とおれが思や、尻っぺた持ち上げて放り込んでやろうじゃねぇか」
若い男は妙な親仁に引っかかったというかおつきで「へい」と云い、ようやく落ち着きを取り戻しのか、思い詰めた目を血走らせながらもぽつぽつ理由を明かした。
「手前は日本橋石町二丁目の鼈甲屋近商の手代文七と申します」
「おお、近商といやぁ、聞こえた大店じゃねぇか」
何でもこの文七、小梅の水戸屋敷に払いの受け取りに行ったというが、水戸家の用人が碁好きで、毎度その折には、文七も相手になって碁盤を挟んで差向かう。それが終わって、帰るさ、枕橋のたもとで風体妖しい男に突き当られた。ふたたび歩くうち、腹の辺りが何か寒い。あッと、気付いて懐を探ると、受け取った金子がない。男を追いかけようと、きびすを返したときはもうあとの祭り。橋向こうには影も形も見えない。
斯くなっては、主人に合わせる顔はない、主家の戸をくぐることなど毛頭出来予て、この吾妻橋まで来た。すでにこの時は決心は着いている。
「もう打っ棄っといておくンなさいまし」
「打っ棄っとけ、って。おめぇ、今夜は幾日だと思ってンだ、暮れの二十八日だぜ、借り手の面張り倒しても、取ってこうって日限りじゃねぇか。よっぽど用心が要らぁね」
抜け作めが、という語勢に、文七は面目なくうつむいた。
「主人にすまねぇからって、川に飛び込んだところでカネが戻ってくるかい、掏摸にやられましたって、店に帰って打ち明けたらいいじゃねぇか。お前、親兄弟が居るだろ、付き添ってもらやいいやな」
「手前、親も兄弟もない孤し児、こどもの頃から主人の世話になっております」
「不便な野郎だな」
腕組みしてしまった長兵衛。冷や汗を浮べて、問い質した。
「じゃ、なにかい、カネさえありゃ主人のもとへ帰れるってことかい」
「左様でございます」
「いってぇ、いくらだい」
「はい、五十金でございます」
「五十金てーと、え、五十両」
文七は肯く代わりに、頭を垂れてため息を吐く。
「やっぱり飛び込むよりほかには」
「ほかには、たって、お前が飛び込むのを、そうかい、っておれが横で眺めているわけにゃいかねぇじゃないか」
長兵衛は梃子でも動かぬ、とばかりに両手を膝に宛て、文七を見据える。
「では、死にません」とうわ言のようにいって文七は、それとは裏腹にやにわに欄干に身を乗り出した。必死にそのからだを押さえて、長兵衛が、
「おい、お前、いま死にませんって云ったじゃねぇか」
と帯を掴んで引き戻そうとするが、文七は片足を欄干にかけようと、きもの前身頃を割って露わになった足ばたばたゆする。
「もう生きちゃいられません、どうぞ離して、死なせておくンなさい」
「じゃ、じゃおめェ、五十両ッ、五十両ありゃ死なねぇンだな」
長兵衛は叫ぶ。
「そら、そうですが」すこし文七の体からちからが抜けたと思った矢先、ふたたびその身が欄干の向こうへと泳ごうとする。
「おい、お、どうしても五十両か、五十両じゃなきゃダメか」
「ダメです、五十両びた一文欠けても」
長兵衛は必死で文七の腰を引っ張りながら、
「五十両かい、二十両にまかンねぇのか」
「五十両なくっちゃ……」
「そうか……」
長兵衛、鼻の穴を膨らませて、おまけに目を剥いて、
「じゃよ、五十両、呉れてやろうぜ」
鼻息荒く告げた。
「馬鹿な、見ず知らずのお人から、そんな」
文七は泡を喰って、慌てて長兵衛の大まじめを拒む。
「見ず知らずもクソもあるけ、和郎が死ぬ料簡だからしょうがねぇやな」
長兵衛は、角海老の女将が手製の財布を、文七の胸懐に無理やり押し込んだ。
文七は抗って長兵衛の腕を掴み、空いている片方の手で押し込まれた財布を引き出し、長兵衛の懐にこじ入れようとする。
「なんでぇ聞き分けのワルい真似を」と怒鳴りながら長兵衛が押し返せば、文七も撥ね返す。
「おい、こら、和郎、どうせおれが女物の着物を着ているような妙な風体だから、どっかで盗んだ、とでも思ってやがンだろ」
文七と揉み合いながら、長兵衛はカネの由来を弁じだす。
「獲ったンじゃねえぜ、おれにゃ親孝行のお久ってぇ、今年十八になる娘がいるンでぇ」
よっく聴け、とばかり、
「おれが博打に入れ揚げて、三年このかた仕事もしねぇ」という発端から、所帯が叶うと同時に親父への異見にもなろうかと、お久が自ら角海老に身売りに行き、憐れんだ女将の計らいで、自分が娘の身代金を返済するまでは、娘はきれいな身体のままにしておいてくれる。その代り、期限を過ぎたら客を取らせることになるというそのカネが、この五十両だ、と長兵衛は一気にまくし立てた。
「そんな金子なら、なおさら受け取れません」
という文七に、
「ケッ、四の五の云う無ぇ、おれの娘は泥水に沈んだって死んじまうわけじゃねぇ、和郎は橋の下にザンブと飛び込んで、おっ死ンじまうンじゃねぇか。このさき五年かかるか八年かかるかしれねぇが、おれが借金を返して娘を身請けするまで、和郎はせいぜい娘が悪い病でも引き受けねぇよう、常から信心するお不動さまでも、観音様さまでも何さまでもお参りして遣って呉ンな」
云い千切って長兵衛は、文七の手を払い、身を離すと同時に、手の内の財布を文七のかおに投げつけて、駆け出して行った。
「クソ、痛いじゃないか。コブが出来るよ。なんだあんな妙な行装して、いろいろまくし立てていたが、どうせ財布の中みは石ころか黴た餅でも入れて居て、世間を騙すンだろ。あんな奴が五十両なんて」
財布を撫でて見ると、意味ありげな手触りを感じて、はて?
と手を入れて取り出すと、なんと切り餅ふたつ。
紙封のそれぞれに、二十五両の文字と、封物署名した表書き。まさしく中みは五十両。
驚いた文七は橋のたもとに駆けて、大声で、
「もし、いまの御仁、引っ返してお呉ンなさい」と呼んでみたが、当の御仁の影も形もすでに見えない。
文七は橋の向こうをみつめながら、
「この御恩は文七、終生忘れません。左様な御仁とも存ぜずに、手前、悪口を吐きました、どうぞ許して下さい。金輪際、この御恩はお返し申すつもりです。どうぞお許しを、まことに有り難う存じます」
頬になみだを伝わらせ、文七は思いを新たに心底詫びた。
日本橋石町二丁目の鼈甲屋近商ではとうに大戸をおろしていたが、帰りの遅い使用人を案じたあるじが、
「まだかい文七は、いったいどうしたっていうンだい。年の暮れにな。おもては犬しか歩いていまいよ、しょうがない、みんなもう寝てしまいな」
と、云ううち、潜り戸を繰る音がして、
「旦那さま、大変遅くなりました」
文七があたまを低くして帰って来た。
おやおや、という表情のあるじの傍で、番頭が、
「遅くなりましたじゃないよ、どこをほっつき歩いてたンだい」と半腰を乗り出してなじる。
「先様で碁のお付き合いしていたところ、どうも手前が勝ってばかりで、もう一番、もう一番、とご用人さまがなかなか……。やっとご勘弁願ったらば、こんな時刻となりまして……。まことに相済みません」
あるじがあきれながら「言わぬことじゃない。碁も将棋も結構ですが、お前はあきんどですからね、そのみち以外の事に深追いは禁物ですよ。大方、先様のご機嫌を伺うためにお付き合いしたのだろうけども、勝ちを見込むンじゃあない。夢中で勝負するから、相手を意地ずくにしちまう道理じゃないか、そうだろ」
「面目ございません」
横合いから番頭が「ところで、掛取りはどうだったンだい」
「はい、ここに」
と文七がふところから嵩高の財布を取り出したから、あるじと番頭は顔見合わせて、大層怪訝そう。文七もハタと気付いて、
「あ、これは、先様で革の財布を大層珍しがられて、あきんどというのは妙な財布をもつものだ、と仰り、おおきにご所望なさいまして、代わりにかような、着物地の財布をお授けくだすった次第で……」
しどろもどろだが、一応理屈の通った説明をした文七だが、あるじと番頭はいよいよ怪しんで、
「なかみは五十両だね」と番頭。「はい、どうぞお検めくだすって」と文七。中みを見て「ほい、確かに五十両だ」と番頭。
あるじが「お前、このカネ、どこから持ってきた」と変な探りを入れる。
「どこからもなにも、小梅の水戸様からでございます」
文七は平然と応える。
「嘘をついちゃいけないね。文七、碁はやっぱりほどほどにしなさいよ」と異見した上、
「ずいぶん刻限を過ぎてしまって、慌ててお前、帰ったンだろ。お前の発ったあと、ご用人さまが碁盤をどけたら、財布が残ってたンだよ」
あとを引き受けて番頭が「先様でも慌てなさって、五十両、お前の戻るより先に御家来が提灯提げて、お届けくだすったンだ。いったいぜんたい、その上のこのカネどうしたンだい」
文七は驚きのあまり、
「え、じゃ、わたしゃ盗られたンじゃなかったのか」
と調子はずれの馬鹿ごえを上げた。
「なんだと、盗られたンじゃないだと、おい、理由を明かすンだよ、文七」
番頭も声高に叫んだ。
「ふたりとも、何時だと思ってる。さぁ、落ち着いてな、話して見なさい、文七」とあるじに窘められて、
「はい、申し訳ございません。すべて明かします。手前、掛取りの金子、水戸様方から確かにふところに入れて御門を出た料簡でした。ところが枕橋のたもとで、目つきの怪しいのが、どんと手前に身体をぶつけて来まして、それとすぐ気づけば良かったものを、吾妻橋までやって来て、ようやく気色が悪くって、ふところを探ってみると」
文七はいまさらふところに手を入れて、腹をごそごそやっている。
「すると、無い、のです。これはもう先刻の奴に掏られたに違いない。こうなった以上、小僧の使いじゃありません、旦那さまに申し訳が立ちません、もうこの吾妻橋から身を投げてしまおうとしているところを」
身を屈めて、畳の目を覗いて、文七は欄干から墨田川を眺めている様子をして語る。
「そこへ職人体の御仁が通り掛かって、手前を羽交いにして抱き止めてくだすって」
その職人に理由を訊かれて、斯く斯く云々、と。そうすると、その職人体の御仁が、ならば此処に五十両あるから呉れてやる、だがこれは今年十八になる孝行娘が自分から身を売った身代金、この上は、娘が悪い病にでも当たらぬように、せいぜい日頃信心するお不動さまでもお詣りしてくれろ、と。
「手前がそんな大事な金子は受け取れぬ、放っておいてください、と云っても聞かずに、最期にその御仁は、財布を手前の顔に投げつけて、行ってしまわれました」
文七は云いながら、そのひとの夜風を切って行く、寒そうなうしろ姿を思い起して、涙をこぼしている。
「なんともどうも、まったく、その親切な御仁がいなけれゃ、お前は吾妻橋から飛び込んで、土左衛門になる始末だったって」
あるじは自身が命拾いしたと同然の、青息吐く思いながらも、幼い頃から育て上げた文七が思い詰め、生命を失う瀬戸際へ自身を追い込んだこと、その寸での処を救った恩人の出現の妙を思い、言い知れぬ感動を覚えた。
「そのお前にとって、命の親のその御仁は、何処にお住まいの何てぇ名の御仁だい」
「いえ、それがお姓名も宿所も聞く間もなく、財布を手前の顔にぶっつけて行ってお仕舞いに……」
「馬鹿だよ、それじゃお礼の仕様がないじゃあありませんか」
「頓馬の馬に、鹿たがないの鹿なんだ、お前は」
番頭がくだらぬ合いの手を入れる。
「娘の身代金ということは、妓楼に身売りした金子でしょうが、その店は何てぇ屋号か、口にされたかい。それに当の娘さんの名も」
「何でも吉原の角海老とか、娘さんの名はお久さんと申されました」
「ふむふむ。わたしはどうも、頓と吉原には疎いからね、角海老なんてねぇ。番頭さんなども堅物のくちだから、知るまいねぇ…」とあるじは番頭に思案顔を向けた。
「えー角海老というのは京町の角店で、大層な大籬で」
「おや、番頭さん、吉原、知っているのかい」
「はい、過般三人連れで……あッ、いえ、どうも」
「どうも通っているようだね。いつか吉原の大門がどっち向いてるかも知れないなんて、云ってたっけ。……まぁ文七も戻って来たし、今日は小言はなしだ、もう夜深だしね」
という次第で、あるじは程よくまとめて、文七の無事をよろこんだ上は、それぞれの床に引けて、一同安堵のねむりに就いた。
翌朝、あるじに呼ばれて、番頭がどこやらに飛んで参り、午後、帰参して、ひそひそとあるじに耳打ちしたうえは、あるじも番頭も首尾を遂げたという満足なかおしていた。
早速、あるじは文七を呼んで、
「羽織を出してお呉れ、お前、供だよ」
と告げて、文七を連れて出かけた。
行く先も知らずに、文七はあるじの後に随いて、浅草の観音さまを参詣し、次いであるじの後を慕うと、やがて吾妻橋のたもとにやって来た。
「お前、ゆうべ、此処で……」
「はい左様で…もう片足が、この欄干に知らずに掛って」
よろよろと身を傾ける文七に、
「これ、よしなさい。もう忘れるンだよ」
とあるじ。
ふたりは橋を渡って、何ほどか歩いて、長屋の木戸がいくつもある広くもない通りに出た。
「達磨横丁というのここらかね。文七、あの酒屋に入って訊ねてみなさい。ここいらに左官屋の長兵衛さんてぇ御仁が御座いますか、って」
文七が酒屋に入って訊ねると、
「長兵衛、ああ、それゃ彼処に肴屋が見えますね、その裏手に回ると、長屋の木戸がありますから、一番奥にまで入ってくだせぇましな、家の前に掃溜めと便所が構えてますから、じきお判りになりまさぁ」
あるじも酒屋に入って来て、
「おおきに有り難うさまでございます。酒屋さん、ついでに五升の切手も頂戴致します。それから祝儀ものですから、ひとつ柄樽もお願い致します」
と段取りして、あるじは角樽提げた文七を従え、くだんの路地奥に至る。
その路地の一番奥の、掃溜めと便所を前にする家の中では、ゆうべから夫婦の言い争いが果てしもなく続いている。
「いったい、あんた五十両どこに遣っちまったンだよ」
「どこにって、いってぇしょうがあるめい。死ぬっていうンだ。背に腹は代えられねぇ」
「なに気取ってやがる。ひとさまに施しが出来る身そらかい、娘が身売りしたンだよ、大事な一人娘が泣く泣く自分から身を売って作ったカネなンだよ。悪い病に引っかかっちゃうかも知れないンだよ。さぁ、どこに預けのか、白状しちまえ」
「預けたんじゃねぇ、呉れて遣ったンだって云うのがわからねぇか、おたんこなす」
「おたんこなすでも、化けなすでもいいさ、口を割らないと、酷いよ」
「割れっ、たって、どうにも……」
「フン、見えてるさ。どっかにカネ隠して、博打の元手にしようって肚さ、お前さんは。さ、どこに隠した」
「馬鹿云う無ぇ、人ひとりのいのちを救うために手放したカネだぁね。おれだって、遣りたくなんどあるもンけ。云ってるだろ、身投げを救ったンだい」
「救うって風かネ、お前なんか足掬って、放うり込む柄じゃないか」
裸半纏一枚の、とても人前には出られない身装の女房に、夜っぴて責め上げられて、長兵衛はほとほと疲れ切っている。
「ご免くださいまし」
「ほい、誰でぇ。生憎よ、手前、少々取り込み中なンでごぜぇやすが」
「はい、お取込み中のところ、まことに相すみませんが、そこを曲げて。こちらさまは左官の長兵衛さんのお宅で」
「おお、おれが長兵衛だよ、何用かい」
「御目通りいただけますか」
「御目通り、と来たかい。いやに丁寧だね、こうなりゃ御目通り叶わぬって法は無ぇな。ちょいと待ってな、すぐ行くから」
長兵衛は女房を振り返って、「おめぇ、屏風の影に隠れてろ、相手はどうも気の利いた筋らしい、そんな恰好じゃたまら無ぇだろ」とささやく。女房も合点して、ごそごそと長兵衛に尻を向けて屏風の影に入って行った。
(ケッ、でけぇ尻だ)
長兵衛は女房から無理矢理剥がした着物の襟を整えて、土間に下りて、戸障子を引いた。
羽織の相手は慇懃に、
「手前は、日本橋石町二丁目の鼈甲屋、近商の卯兵衛と申します。うしろのこれ、手前どものこの奉公人のかおをどうかご覧なすって、…文七、お前もこっちへ寄って、長兵衛さんの御かおを拝ませてもらいなさい」
「お、おめぇは」
「あ、あなたは」
互いに確とゆうべの吾妻橋でのいきさつをよみがえらせて、
「身投げの手代」
「命の恩人」
と相手を呼びあった。
「そうか生きているか。どうも、良かったぜ。ささ、お入りな、お入り」
と長兵衛は不意の客人を家に入れた。
「まったく、どうも良かったぜ。な、おれ、身投げをしようてぇ料簡のお前さんに、財布ごと五十両渡した、そうだな、どっかにおれが隠して持ってるなんてぇことじゃ金輪際無ぇな。そうだよな」と腰を下ろしながら、長兵衛はことさら声を上げる。
「ええ、あなたさまは手前のいのちを助けるために、財布をわたしのかおにぶっつけて、行ってしまわれたンです」
「ぶっつけた、そう、そんとおりだ。おい、ざまあ見ろ、身投げを放り込む手合いだと、畜生め、飛んだ濡れ衣きせやがって」
ひとり大声で語る長兵衛に、客が訝しいかおを向ける。
「いや、誰が聴くンでも無ぇけどな、とにかく、ま、無事生きててくれて、良かったぜ」
「まことにどうもありがとうございました。この文七が掏られたというあの金子、じつは」
と近商のあるじは云い、それから文七の粗忽と、金子が文七の帰宅よりも早く届けられた顛末一切を長兵衛に打ち明けた。
「そうけぇ、それゃまぁ、何よりだぁな」
長兵衛は聞いて納得したものの、女房とのゆうべからの諍いの熱が冷めずに、つい、
「此奴も此奴だが、旦那も旦那よ。年の暮れによ、よりによってこんな奴を使いに出すもンじゃないさね、お陰でおれっ家ゃ大変なことになってンだ」
と云わずにおれない。
「どうも相済みませぬことでございます。つきましては、このとおり、五十両の金子はお返しいたしますから、どうかご勘弁を」
近商はうやうやしく、ぶっくり嵩を張った着物地の財布を長兵衛の膝の前に差し出した。長兵衛はぷいとそっぽを向いて、
「受け取るわけにはいか無ぇよ、わっちはこのカネ、文七つぁんに財布ごと呉れてやったンだ。いまさら取り返すなンて、そんな意地汚ねぇ真似が出来るとでも思ってンのか」
長兵衛のこの出方に、あるじも文七も度肝を抜かれたが、
「それを何とか、お堪えくだすって」と達て近商が云えば、
「おれは貧乏人が板に着いちまってて、カネが根っから性に合わねぇンだ。一旦、文七つぁんに授かったカネじゃあねぇか。この若いのがこの先店を出すときのよ、足しにでもしてやっておくんな」
「そうは参りません、長兵衛さん、曲げてお納めくださいまし」
呉れちまったンだ、そうは参りません、の近商と長兵衛の応酬が繰り返されるさ中、屏風の影から手が伸びて、長兵衛の袖を引っ張る。
「うるせぇな、コンチクショウ」思わず、発した長兵衛に、
近商は、
「ご気質は充分承知の上でございます、お袖も傷みましょうから、どうか、ここは手前どもの願いを容れてくださいまし」
あるじ、文七ともどもに、畳にひたいを着けて頼み入った。
「そうかい、そうまで云うンじゃ性がねぇ」
ついに折れて、長兵衛は小鼻を掻きながら膝元の財布を眺めている。
「ついては、もうひとつお願いがございます」
「なんだい」
「手前どもあきんどには、なかなか親方のように、わが身を捨ててまで、という心がけの者は居りません。あきんどでもひとと生まれたからには、世のためひとのためは、生涯の心得でございます。そこで、親方とこの近商と、僭越ながら親類付き合いをばお許しくださいませぬか、是非お願い申し上げます」
「へえ、乃公っちとかよ」
長兵衛はあんぐり口を開けている。そして、ニヤッと微笑って、
「早まるンじゃねぇよ、乃公っちみたいなのと付き合ったら最ご、始終、借金のムシンを寄越すぜ」
微笑いながら、頬を掻いている。
「どういたしまして。さらには、これなる文七、親も兄弟もない身の上ですが、将来なかなか見込のある者、この上は親とも後見ともお成りくださって、何かと目を掛けてやってくださいまし」
文七も身を乗り出して、
「親方はいのちの親、どうかお頼み申します」
と切に願い出た。
「どうも参っちまわぁ。そうか、まぁ、いいや。わかったよ」
淡泊に長兵衛は云って、この機を逃さず近商が、
「ああ目出度い、目出度い、幸い、ここにご酒の用意もございます」と持参の角樽を披露した。
「こいつぁ、ありがてぇ、酒なら目がないほうでやす」
長兵衛も気持ちよく目出度い雰囲気に浸る。近商もやっと安心した。
「そろそろ肴も届いた時分です」
「肴? 」
文七が路地に飛び出して行く。戸障子のすき間に覗く一挺のあおあおした四つ出駕籠。
すかさず近商の「おお肴が届いた」の声と同時に、先棒擔きが垂れをサッと跳ね上げる。
駕籠から表われた娘のお久、昨日に変わる錦のいでたち。
「おとっつぁん、わたし近商の旦那に身請けされて来たの」
「おお、おめぇ」
長兵衛、感極まって声も出ない。
「おっかさんはどこ? どこ、おっかさん」
お久の呼びかけに、つい屏風から飛び出した女房、裸半纏の尻もあらわなその姿。一同あんぐりし、女房は慌てて復た引っ込む。
こののちお久と文七と夫婦と致し、麹町六町目に「文七元結」という元結屋を構え、大層繁盛したという一席。
(おわり)