裏山の雑木林を目指して春江がたどり着いた小屋は、板戸が嵌った出入り口、そばにはドラム缶や三脚が置かれ、横手を見ると、箒とスコップが立てかけてあり、その足もとにはブルーシートが無雑作に拡がっている。
物音のする裏手に回ると、昨日の老人が居た。
しゃがんでバケツの水で顔を洗っていた。
「水道、通ってまへんのか」
春江は最初に妙なことを口走ってしまった。
えっ―と、老人は声にふり向いた。
「あんたか」
驚いたのであろうが、顔つきはきのうの茫漠と、つかみどころの無い趣と変わらない。
「水道なら、そこにある」
老人は山裾が迫るくさむらの手前の、石で囲った畑にあごを向けた。にょっきりと水道管が伸びて、蛇口からポツリポツリ水滴が落ちていた。
「風呂はおへんやろ」
意を決してやって来たのに、春江はまたまた面妖なことを訊く。
「ドラム缶で沸かす式ならある」
玄関わきのアレがそうかと春江は思った。
「家に入ろうか」
手拭いで顔を拭い終えて老人は云った。
表に回って板戸を引いて入った小屋は、土間の隅に竃と流し台の台所があり、そばに大甕がふたつ。六畳ほどの板敷きには、卓袱台に水屋、裸電球が天井からぶら下がっていた。それなりに生活できそうな屋内であった。
「電灯は点きますのンか」
「点くなァ」
「押入れはおませンな」
「ないな」
板敷の隅に、うすい蒲団が畳まれて寄せてあった。寄り添うように、傷だらけの古トランクが置いてある。
ふたりは板敷に上り、卓袱台をはさんで腰を下ろした。座布団は無い。
「お煮〆やら、かまぼこやら、持って来ましてん」
春江は風呂敷つつみを解いて、重箱、その上に載せたプラスチック容器、水筒、箸を手慣れたさばきで卓袱台にならべた。そして三段の重箱を開けて、
「どれも沢山入ってますやろ」
煮〆も焼き肴も卵焼きも盛り上がるようにギュー詰めにされていた。
「ご馳走やな、正月みたいなな」
「食べなはれ」
喜ぶ老人に春江は命令口調で云った。老人は箸を取って、かまぼこをつまんだ。もごもごと無精ひげの生えた口もとを動かしている。
「お茶飲みなはるか、ビールのほうが宜しいか、お酒もおまっせ」
紙の手提げから、一升瓶、缶ビール、湯呑を取り出してみせた。
「酒か、酒にしよか」
春江は湯呑に酒を注いでやった。老人はひと口旨そうにすすると、吐息を吐いた。その様子を眺めながら、
「これもなんぞの縁やと思うて、訪ねて来ましてん」
春江は言わずもがなの訪問の動機を洩らしていた。
「わしあんたの父親や」
老人はなんぞの縁ではなく、血縁だと云っている。
「そうどすかいな、知ったこっちゃないわ」
春江はこの期に及んで、なかなか素直になれない。話題をそらし
「墓掃除だけや無しに畑もしはりますのか」
と水道管のある畑らしき場所には、得体のしれぬ菜っ葉が栽培されていた。
「寺で観光客相手に精進料理出してでな、小松菜だけ自家栽培や。ひろうすや湯葉は住職がわざわざ選んで、どこぞの豆腐屋から卸しとるようや」
老人の説明など春江はろくに聞いてもいなかったが、
「豆腐屋なら京都は腐るほどおますからな」
「ああ。冬場は湯豆腐も出すさかい」
「年寄がお給仕もしますのんか」
「そんなことはせん、それは小坊主の仕事や」
「ほな、普段は墓掃除と畑仕事を」
「それ以外に鐘も搗く」
「そうどすか」
春江は湯呑を舐めている老人をつくづくながめつつ、
「ほれ、お酒ばっかりやなし、おかずのほうも食べなはれ」
と命じた。
「ああ食う」
「えらい粋なもん、架けてはりますのやな」
もそもそと咀嚼する老人を眺めながら春江は云った。いままで気付かなかったが、老人の金の鎖が首に架かり、胸元でペンダントがひかっていた。
「これか」
と老人は四角い金色のロケットを指で撫でた。説明はしない。老人はふたたび箸を動かして、卵焼きを口に入れた。いまこうして春江を前に、その持参の佳肴に預かっている状況に少しの頓着もない。
「いったいいままで、何処で、どうしてはったンや」
春江は老人に質した。
「チェジュド」
耳慣れないひびきに、春江は「エ? 」と聴き返している。
「日本では済州島と云うてるな、韓国の島や」
「韓国の、そんなところに居あはった、――その島でお医者はんを」
「いや畑や、百姓しとった」
「お百姓。――」
「陸軍技師奥嶋康蔵は逃亡の身や。捕まるから医者は出来ん、百姓に成り済ましてた」
春江は落胆とも諦めとも着かぬこころ持ちで、
(―やっぱり逃げてはったのか。)
と思った。
ソ連侵攻を目前に、奥嶋康蔵が関東軍を逃亡したのは、故京都医専教授堀口祐三の誤解ではなかったのだ。
それにしてもなぜ康蔵ひとりが、同僚から離れて敵前逃亡をしたのか。関東軍科学研究部哈爾浜支部の部員たちの中には逃げ遅れてソ連の捕虜となった者もいたが、大部分が終戦直後に帰還を果たしている。帰還者のなかには康蔵と同様故堀口教授の斡旋で、同支部に奉職した斉藤医師も居た。
堀口教授との面会で、康蔵逃亡を告げられてからおよそ半年後、終戦から一年後に春江は亡母とともにその斉藤医師を訪ねている。哈爾浜赴任時医専の講師であった斉藤は、大学に復職して教授に昇格していた。
当時春江は斉藤が自分たち奥嶋母娘の来訪に、当惑しているような印象をもった。斉藤は康蔵と同じ堀口門下の医専出身ながら、斉藤が四年上の学齢で康蔵との個人的な付き合いはなく、哈爾浜の研究所でも一度も顔を合さなかったという。なにしろ支部は三千人を超す組織であり、奉職時期も違う康蔵がどういう部署に居たのか斉藤は知らぬと云った。ただソ連侵攻直前、支部で逃亡者が出たという噂を聞き、日本に帰還後、それが同門の奥嶋康蔵らしいと知った。
斉藤はつまり、何も知るところはないのだ、と春江と昌江に語ったのである。
―私自身逃げたいという恐怖もあったが、逃げてはひとり敵の海に投じるようなもの。奥嶋君の行動はあまりに衝動的で理解に苦しむ、敗戦で自暴自棄になったとしか言いようがない。
春江と昌江が投げかけたギ問に斉藤はそう答えただけであった。
春江は卓袱台の向こうの老人にあらためて問うた。
「ソ連がほんまに怖かったのどすか」
「ソ連だけやない、中国もアメリカも怖かった。戦争に負けたら最後や」
春江は老人の平板すぎる告白、それゆえ本心らしい思いに、遠い以前に聞いた斉藤医師の感想を重ね合せて、やはりそうだったかと思う反面、本当にそんなことだったのであろうかと、もっと深い事情が隠されている気がしてならなかった。
腑に落ちぬ思いを抱きつつ、春江はため息まじりで老人に云った。
「のちのち哈爾浜支部は捕虜を実験台にして、怖ろしい研究をしてはったと聞いたことがおます。そうやさかいに、うちのお父うはんはソ連に捕まったら、そういう研究がもとで罰を受けると考えて逃げなはったんと違うやろうか、戦犯やな、とそんなことも考えたことがおますが、ソ連に収容されてはった支部の人らはみな帰国して来はったし、医専から支部に行かはった斉藤先生もいよいよ出世して最後は国立大学の学長にまでなりはった。だれも罪に問われてへん。お父うはんひとり、なんで逃げんとあかなんだのか、そのことが長い間の疑問でいまもひっかかります。そうやけども、戦争が終わって三十八年どす、仮にお父うはんだけが罪に問われるようなことがあったにしても、戦後は世の中ころっと変わりました。戦争時分の事なんて仕方ない、とみなが許してとうに帳消しになってます。もし罪なことをしはったなら、とそう考えながらお墓参りしてました」
墓を建立した当初、春江は墓参の都度、父の罪を問いかけながら、「南無阿弥陀仏念仏」を唱えていたのである。そうして十年も経た頃、親鸞聖人の悪人正機という言葉がふいに頭をよぎり、これにすがった。凡夫は生きるためには悪人であり、悪人である自身を自覚して、苦しみに喘いでいるひとこそ弥陀の本願の加護が得られる。自己流ながらも、そうと親鸞の教えを解し、これを父親である康蔵に仮託した。もし罪を犯して逃げたとしても、康蔵は其の罪業を自覚して長年苦しみ喘いだはずであり、それならばきっと阿弥陀仏の菩提心を得て、康蔵はこの墓石の下で極楽往生を遂げている。
(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)
とそう思うことが同時に春江にとっても救いであった。
そして娘として思うのは、逃亡の動機ではなく、なにゆえ三十八年間も家族を棄てていたのか、それが問われるべき康蔵の罪だと思っている。
「音信もないのは家族への裏切りや。それが私には許せません。こんなに長い事還って来はらなんだのは何でか、そのわけを訊きたいのどす、わけを」
「わしが長いこと帰らなんだ、そのわけか。――」
老いた奥嶋康蔵はぽつりと云い、胸のロケットを撫でて考えを巡らす様子である。
やがて、
「それはな」
と意を決したように語り始めた。
「支部を脱走して、哈爾浜の街なかで潜伏してたのやが、日本の軍属らしいということでソ連に捕まりかけた。その時かくまうてくれた女が居た」
「おなごはん――」
「そうや、おなごや、そのおなごに対する義理や」
当時、女は康蔵より一歳年上の四一歳、朝鮮人の寡婦であったという。
康蔵と同年の夫金平中(キム・ヘイジュン)は日本統治下の済州島の農夫であったが、女は前年その夫を残して哈爾浜に出稼ぎに来ていた。半年前、夫平中が女を連れ戻しに哈爾浜にやって来たが、日本軍人との諍いが起きて、夫は殺されていた。
―済州島に戻ったら、夫の農地が有る。
と、かくまわれて数日後、女から誘いを受けた。康蔵は金平中に成りすまして、女と哈爾浜から大連を経、航路済州島にたどり着いた。
「――そんな女をひとり残して日本には帰れん。朝鮮人の金平中として、ずるずると百姓や」
「その女に恩義があるさかいに帰らなんだとゆわはるンどすか」
「そうや」
「日本に残した妻子に、父親や夫としての責任を感じることはなかったのどすか」
「済州島に流れ着いたのがわしの運命で、ここで骨をうずめるしかないと思うた。お前や昌江にはわしが外地で死んだと思うて諦めてもらうのが、一番良かったのや」
康蔵は重箱に箸を入れて、かまぼこを摘まもうとする。
「なにが一番良かったンや」
春江は口を尖らせたが、目もとが潤んでいる。
「だいぶ苦労したンか」と康蔵はかまぼこを宙に、春江をながめた。
「終戦から一年、ただお父うはんを待ってるだけでは食べていけしまへん」
春江は昌江が花園の家を改造して、洋品店を始めた事、だが慣れぬ商売で三年と保たずに潰れて、家も取られて、あとは母娘でおでんの屋台を引いてなんとか糊口をしのいだ当時を打ち明けた。
「そうやからと云うて、遺族年金も貰われしまへん。奥嶋康蔵には戦死公報もない、還って来た斉藤先生は、奥嶋君の事は逃亡したという噂以外何一つ知らんと云わはるし、ともかく逃亡したような軍属にはびた一文もお金は出ませんわ」
康蔵は春江の話しの腰を折るように、
「あんたいまでもおでん屋か」
と云った。
「おでん屋どっせ。けど木屋町の三坪の店から、いまは祇園花見小路の一等地に移って店構えてます。かれこれ二十年あまりになりますがな」
鼻の穴をそむけて、春江三十八年間の自負を、たっぷりと怨念を盛って云った。
「祇園の女将さんか」
「結婚もせんと頑張って来ましたのや」
「傷ましいことや」
西日が戸口から射して、小屋の中を黄褐色の暑苦しい色あいにする。
冬場ならばともかく、これから夏に向かって、畳でなくて板敷の間で良かった、と春江は康蔵の肩ごしに、畳まれた煎餅蒲団をながめてそう思った。
「昌江は昭和三十年に死んだのやな」
康蔵が箸を止めて、云った。
「これからやっとええ目ェ見させてあげられるゆう矢先どした、腎不全患うて」
「そうか。尿毒症から心不全の発作にいたって死んだのやな、昌江」
春江はため息が漏れた。心もちあごを上げて、ことさら病症をたどる康蔵に、遠い昔に接した医者である父のおもかげを見たのである。
「昌江、糖尿の気ェ、あったんか」
「なんや免疫がどうたらと」
「呍、全身性エリテマトーデス。―自己免疫疾患による腎機能障害や」
その病状を想起しているのか、康蔵の顔つきは沈毅に静まり、冷徹そのものである。
春江は恨めしそうにその表情を見ていたが、
「お母あはん、しばらく病院のベッドに寝たきりで、床ずれとか、腸に管通されたりして、毎日、痛い、痛い云いもって―最期は骨と皮ばっかりに痩せ衰えはって」
「あぁ、痛みの原因はそれだけや無い。腎機能が不全になって尿素が血中に沈積すると、筋肉が引き攣ったりするし、意識も混濁する。痛みの訴えもうわ言のようにくり返すようになる。あの疾患の患者は大抵苦痛の伴う最期を迎える」
面憎いほど冷静過ぎる医者ぶりであった。
「ずっとお百姓してたとゆわはりましたけど、お医者のほうはすっくり辞めてしまわはりましたんか」
「ああ医師奥嶋康蔵はこの世からとうに消えて無くなって、いまは墓守の爺やんが生きてるだけや」
「ただの爺やんでっか。ほんでもまぁ仮にも落ち着き先が見つかって幸いどした。どないなご縁でここに」
「昔の誼を頼りに居るンや」
この法泉寺の住職が康蔵の小学校時代の同級生だった、その縁を頼ったのである。
「そやが、訪ねて来たらもうその住職は亡くなっていた」
まぁ、と思わず春江は眉を下げて悲しげで、人の良さを暴露していた。
「いまは息子の代や。その住職にな、わしは九州に居ったが、事業に失敗して、もう身の置き所がない、身寄りもないから、寺男にでもしてここに置いてくれ、とな。そうしたら住職、大昔の小学校のアルバムを取り出して来よった。こども時分のわしと先代がならんで写って、横のページにな、その順番でふたりの名前もならんだる。それで採用が決まった。そんな経緯や」
「そうどすか」
方便だったにせよ、身寄りのない身として康蔵が住職に縋ったことは、春江に一抹の淋しさを呼んだ。
「身寄りもないつもりのおひとが、何で済州島から日本に戻って来はりましたン」
春江が気落ちしたような声音を洩らすと、康蔵ははじめてこころの動きを示すような、遠くを見るよう目をしながら、また胸もとのロケットをいじくり、
「死によったんや、女が。一年ほど前にな」
と云った。
「お前や昌江のことを忘れることはあっても、生まれ故郷のこの京都の事は年寄りになるにつれ思い出されてな。居ても立ってもおれんようになって。そんな時長患いしていた女が死んだ」
「三十八年間連れ添うた命の恩人」
「そうや。それで女の葬式出して、田畑売って、金平中名義のパスポートで日本に帰って来た。本当はみ月しか滞在出来ん旅行者やが、役所にも気づかれんまま期限が過ぎてる。このぶんなら死ぬまで、こうしておれるやろ」
春江はふたたび淡々とした口調の、どこか人情の通じなさそうな康蔵に、情けないような笑いを向けていたが、
「盛大食べておくれやすな」
と卓袱台の上の重箱に目を落とした。
春江は黙々と箸を使う康蔵をながめ、次第に悟ったようなかおつきになっていた。
「店がおっさかい今日はもう帰らしてもらいます。けど、これからちょいちょい寄せてもらいますよって」
腰を上げながら、ハンカチで小鼻を抑える春江を見上げて、康蔵は、
「待ってるで」
と云った。
春江は感極まり、涙ぐみながら鼻をすすり上げていた。
4
真っ暗な小屋のなかにざらついたいびきがひびく。
康蔵は春江の持参した酒を呑みほして、無精ひげに食べかすの付いた口を開けて、居ぎたなく蒲団の上にあおむけに寝そべっている。
卓袱台には空になった重箱、その脚下に酒瓶が転がっていた。
眠る康蔵のくちもとが微かに動いて、言葉にならぬつぶやきを吐いていた。夢を見てい
るのであろう。
暗闇のなか、押し寄せる夢寐に康蔵の脳がつぶやく。
夜。
吹雪の雪原。
するどくひかりの帯を発する探照灯。黒い防寒着の男ども。
いまひとり、緑の防寒着を着、車椅子に縛り付けられた男。男の左足は剥き出しの裸足。
「時間良し」
合図に、車椅子の男に近付く黒い防寒着。棒を振り上げ、車椅子の男の剥き出しの足を叩く。ぱン、と板を打つような硬い音。
「良かろう」
黒い防寒着の男どもが車椅子を囲む。黒い防寒着のひとりが車椅子を押す。雪原をキコキコきしみ音を立てて移動する車椅子。
コンクリートの壁に囲まれた殺風景な灰色の空間。
やがて軋んだ音を引き摺り、ぼんやりとすがたを現す車椅子に固定された全裸の男。
数人の足音。
パチンとスイッチの音。ぱッと強烈な明かりを放つ無影灯。
金髪を逆立て、上半身のうぶ毛に無影灯のひかりを滴らせて、凍りついた青い瞳を見開いて、車椅子の若者。革ベルトで車椅子に拘束されているその若者の、右の手は黒く腐敗し、指はなかった。左の手指には骨だけが残っている。右足は膝から下を欠いていた。
若者の周囲には、黒い防寒着に替わり、目以外は窺えぬマスクに手術衣の男たち。
「温水」
雪原と同じ声が命ずる。若者の足もとに湯桶が置かれ、左足が浸けられる。その傍らには金属製のテーブル。テーブルの上には冷たくひかる鉗子、ピンセット、鋏、蒼白いメス。そして目以外窺えぬマスクに手術衣の者ども。
「はじめよう」
夢寐に小屋の中の康蔵がつぶやく。
羽交い締めにされて車椅子の若者は咆哮を上げる。さらに車椅子の背に板が挿しこまれ、若者の額に革ベルトが巻かれる。固着された若者の頭部。身もだえして抗う若者。若者の首筋、右耳の下に針が刺される。呻く若者。
「深部体温、何度か」
康蔵がつぶやく。
針が若者の首から抜かれて、応答にうなずく康蔵。
「次、脳液温度計測。後頭下、大槽腔穿刺―」
ひときわ大きな康蔵のつぶやき。
すばやく車椅子から革ベルトが外されて、若者は羽交い締めにされて手術台に移される。
側臥位で再び革ベルトで手術台に固着される若者。そのまま若者は前屈した頭部を手術衣の男に押さえられる。穿刺針を持つ康蔵の手が若者の首筋に伸びる。針が若者の後頭部に刺入される。若者の顔が苦痛で歪む。そして絶叫と共に若者の目に火花が散る。
真っ暗な小屋の中で、夢を貪る言葉にならない康蔵のつぶやき。
静かに古めかしく流れ来る『夜来香』の曲。康蔵の夢寐は続いている。
浮かび上がるネオン瞬く夜景。ホテル、キャバレー、カフェ、花屋。そしてロシアン建築による玉ねぎ型の尖塔をそびえさせた中央寺院。周辺の石造りの建物は外壁の一部が崩れて、繁華なまちのあちらこちらに焼け跡の瓦礫。ホテルの前にはアカシアの並木が続く石畳みの街路。
広場を行き交う馬車。毛皮襟のぶ厚いコートすがたの人びと、隊列を組んで行くソ連兵。夜空に浮かぶ凍るような月。酒場のネオン。―
ホテルの裏口から、トランクを手に一人の男。コートの襟を立て、目深に被ったソフト。『ウグイス』と日本文字のネオンが点滅するキャバレーの入り口近く、女―白系ロシア人であろう大柄な女が、壁に背を預けて、トランクの男に流し目を送る。男はソフトの顔を伏せて、足早に女の前を行き過ぎ、花屋の店先から路地に曲がる。
煉瓦壁の隘路に入り込み、トランクを置いて煙草をくわえる男。ぽっと炎を上げるライター。火灯りに浮かぶ康蔵の顔。
花屋の立て看板を影に、不意に現れた車椅子の男。康蔵と交わる視線。おもむろに男がくわえた呼子。夜を切り裂く鋭い高鳴り。トランクを提げて走り出す康蔵。
キーキーと車椅子の軋みと走り寄る軍靴の音。路地を抜け、瓦礫の町を走り抜ける康蔵。瓦礫を踏んで追いかけてくる四、五人のソ連兵。逃げる康蔵。突如康蔵の目前に拓けた哈爾浜駅前の街路。放射状に伸びた舗道のひと筋に車椅子の男。それを押すソ連兵。背後に迫る軍靴の音。トランクを抱いて必死の形相で逃げる康蔵。
「ひぃー」
自身のうめきごえを聴いて、康蔵は目を醒ました。煎餅布団から上体を起こし、つばを呑み込んで、真っ暗な小屋を見まわしていた。
闇の中、寝ぼけまなこを瞬かせて、康蔵は胸もとのロケットを指先で撫で回していた。
(Eにつづく)