暮 鐘 

  

故郷の蹉跌(さてつ) 

 

            

 

暮色の降りた通り。

灯り始めの軒灯やぼんぼりが、滲むようなひかりを投じる。

祇園花見小路『おくしま』の飯台うちは、板前の竹内と手伝いの鈴子とで、料理の仕込みがほぼ整いつつある。

「こんなもンやろか」

 鈴子は湯気を上げるおでん鍋に、最後、煮ぬき卵を仕込んで云った。

包丁を止めて、竹内は鍋をのぞく。手前のまな板には、首の皮一枚を残して、銀色の鱧が(えら)のあたりを膨縮させている。

「ああそんなもンかな」

 日中、真夏のようだったきょうは、おでんだねも少量で足りる。きつね色の出汁の表面にこまかな油脂のかがやきが浮き渡る。

 ガラッと戸が開いて、常連の大学教授フランクがにこやかな顔を見せた。浴衣着に、手には辛子色の信玄袋を提げている。

鈴子と竹内が気安な笑顔で迎えると、

「宵の口から、ちょっと早過ぎた? こないな太平楽な客、かなんね」

 関西弁の流暢な日本語を発しながら、飯台前に立った。

「なにを仰いますやら」

 竹内にうなずいて、フランクは気に入りの飯台端に腰かけた。

「暑かったねぇ、きょうは。とりあえずビールやね」

 蒸しおしぼりで薄桃色の顔やくびすじを拭い、いつもながらの上機嫌である。

長年京都在住のアメリカ人教授は、鈴子がビールを運んで来ると、空いた片方の手でちょっと浴衣の袖をつまんで壜を傾け、えびす顔で注ぐと、喉を上げて半分ほどを呑み干した。

「女将さん、見えないね、どこかお出かけ」

 唇許の泡を拭い、教授は云った。いつもは真っ先に出迎える女将の春江だった。

竹内と鈴子は顔を見合わせた。

「もうじきに」と竹内は取り繕い、二階にちらと目を向けた。

 正午前、買い出しから戻った竹内が料理の下ごしらえをしていると、春江が外出先から戻って来た。優れぬ様子で、竹内に声も掛けずに二階に上り、そのままこの時刻まで何の沙汰もないのである。 

 

仏壇を前に、春江は電灯も点けない。うす暗い二階の自宅部屋に居きりである。店に出る身支度こそ終えているが。

いざ階下に降り、店に出ようとすると、惑乱がぶり返し、ふたたび仏壇の前に腰を落としてしまう。

(あのひとは、真実、奥嶋康蔵(やすぞう)

 仏前でこの問いばかりを繰り返している。

信じようという思い、信じたくないという思い、両方が交差して、解きほどくあや目を見出し兼ねた。心底苦しい。

戦時中を『関東軍科学研究部()()(ピン)支部』の軍属技師として満州の任地で過ごした康蔵だったが、終戦後も復員せず、戦死広報も送られてこなかった。

待ちわびる妻と娘春江の元には何の連絡もないまま時日が過ぎた。

母娘が父の戦死の不安を抱えて暮らしたこの間、ふたりはただ待っていたわけではない。

終戦後半年を過ぎて還らない康蔵の消息を掴むために、夫康蔵の恩師であり、康蔵に関東軍科学研究部への奉職を斡旋した京都医専の医学博士故堀口祐三教授を訪ねていた。春江十六歳の時である。

そこで母娘には予想もしない答えが待っていた。堀口は開口一番、

「奥嶋君はソ連軍の満州侵攻時、消息を絶った、逃走したンじゃ。軍から無断で離脱したため、その後ソ連軍から逃げおおせたか、避難民と共にソ連兵に殺されたかはわからん」

 と自身が推挙した教え子の逃亡を苦々しく告げた。

「無断で離脱、なんでそんな」

「単にソ連が怖かったからだろう。いずれにせよ八月十五日終戦詔書発布以前の行動で、軍属とはいえ仮にも帝国陸軍に奉職する者が不名誉極まる。生死は定かでないが、生きていたとしても当人はのこのこと本国に戻るかどうか。家族としては奥嶋君の帰還は諦めるべきだ」

昌江はぼう然として、やがてなよなよと腰を沈めて、その場に尻もちを搗いた。春江は昌江を抱き起して、気強くも、

「父は軍人やない、医者です」

必死に堀口に抗弁していた。

帰途、肩を落として今にも倒れそうな昌江に手を貸す春江の胸には、

――奥嶋君の帰還は諦めるべきだ。

という堀口の冷たい言葉が、鉄の玉を抱くように重くのしかかった。

だがその後も、逃亡などは堀口の誤解ではないかと一縷(いちる)の望みを抱いて、復員局に出向いては、母娘で『陸軍技師奥嶋康蔵』の転属や前線への派遣の有無を確かめたが、何の確証も得られなかった。

一方で南洋、台湾、朝鮮、中国などからの引揚げ開始時から、舞鶴の引揚援護局に通い、輸送船から下りてくる復員者を待ち構えたが、その中に父のすがたは遂に見出せなかった。

歳月ばかりが虚しく過ぎて、母娘は徐々に康蔵生還の希望を薄れさせていった。そして終戦から十年目の昭和三十年、母昌江が逝った。ソ連の抑留者がようやく送還されてきた時期でもあった。だがその中にも奥嶋康蔵は含まれていなかった。

その後春江が亡母の墓を建立しようという時、母が父とともに同じ墓に眠ることこそ供養と思い、家庭裁判所に奥嶋康蔵の失踪宣告を申請した。

やがて形式上の死亡が公認されて、奥嶋康蔵は昭和二十年の終戦の年に戦死したものとして、遺骨のないままに、妻昌江と同じ墓に葬ることになったのである。

 墓地に現れたあの薄汚い老人はたしかに奥嶋康蔵であろう。

彼が洩らした片言、そして遠い記憶にある顔つきは、春江の疑念を打ち砕く。それゆえに春江には音信ひとつない三十八年もの不在が許せなかった。

春江にはいまさら父と娘の関係の復活など容易に受け容れられない。

(何かの間違いや、きっと)

悪足掻きのようだが、くり返し思うのである。ただその都度、

「なぁお母あはん」

 と亡母昌江の小さな遺影に語りかけているのは、こころが揺れている証拠だったが。

何度目か、昌江の苦労で(やつ)れた遺影を眺めていると、隣家のお茶屋『桝冨』からパチパチと手を拍つ歓声が聴こえてきた。宴席の景況であり、時刻はすでに夕刻に達しているのである。

春江はハッと我に返った。突き動かされるように、

「あんなお爺さん、ほっとけ」

 と独り気炎を吐いて、腰を上げた。

 春江はどたどたと足音立てて階段を下りた。結界の長のれんをくぐり、店にすがたを現したときは、すでにいつもの明朗な『おくしま』の女将春江であった。

「まぁ、先生」

 フランクを見、笑顔を向けると、早速、飯台にある当人のビール瓶を上げる。

「おおきに春江さん、あなたの姿を見て、ようやく落ち着いた」

 フランクがコップを上げて云った。

 

             2

 

 ビルの谷間に、暮れなずみ、遠く紫にかすむ北山の峰々がある。

この時刻の京都が一日の内でもっとも美しいと紀子は思う。

ホテルや市庁舎、銀行、オフィスビルがならぶ御池通りに面したビル十階の一室。紀子はふと目をやった夕景に、郷愁をひとしおにする。

ガラス窓に斜陽の空を映して、東日新聞京都支局は総勢十名の記者のほとんどが出払って、在席者は紀子のほかに新人記者一人とデスクの局次長だけである。

「柏木さん、ちょっと」

机の列を一つ隔て、村上デスクが応接セットを傍らに置く自席から、目顔を向けた。

チェックに回した記事のことであろう、紀子は席を立った。

村上は紀子を前に溜め息まじりで椅子の背にもたれ、

「柏木さんらしくない」

と、指先で机上の原稿をトントンと拍った。紀子が午前に取材し、『スクリーンに映る先端脳科学』という見出しを付けたそれである。

「一応まとまってはいるけれど」

「はあ」

「どうしたことかいなァ、タイトルも記事も平板で――どうも」

――埋め草もどき、

とまでは村上は云わぬ。が、そう言いたいような表情である。紀子自身、読みどころの拾えぬ、極めて平板な記事になっているのを自覚していた。自身、もっとも訝しいのは、わざと無気力に書いている。

記事は匹のサルを実験台に、脳の情動活動を色彩の変化と明滅する動きとでエモーショナルに再現した、という今回の発表を要領よくまとめた上で、ストレスホルモンの濃度変化という化学反応を応用した表現の原理を解説する。それ以上でも以下でもない。発表側が用意した資料を再構成しただけであった。実際に取材に臨んだ、とりわけ生きたサル、しかも母サルと子サルを使った公開実験を目の当たりにしたという、生物の機微に触れる、臨場感も精彩も感じられない。

 村上デスクは、本社でも達文で知られた記者であったはずが、という思い入れであろう、けむりに(いぶ)されたような、すっかり困惑した態で紀子を見上げている。

紀子は自嘲し、短く、

「気持ちが入らなくて」

 と口もとを翳らせた。

記事に出来ない心情が紀子に有る。仮に、真実気持ちが突き動かされたサル親子の悲哀と苦痛を書けば、そのままきょうの研究者らの批判につながる。

教授をはじめ、かれら個々人に対する攻撃はしたくないし、そんな記事を書けば、動物を実験材料に使わざるを得ない科学の現実を無視する、偏頗な主張と捉られて終ってしまい、結局のところ単に(あげつら)うだけの、現実と乖離(かいり)した無責任な記事で終わるだろう。要は正論と大人の判断とのあいだで揺れて、そのどちらにも振り子の触れぬ、埋め草もどきの記事にしてしまっているのだ。

発表の場で研究助手が異常な行動に出、叫びごえをあげた。

そこにこそある真実を書くには、これから本腰を入れて取材を続けなければならない。だが新聞発行という現実の前にはとにかく記事にする必要がある。それがもどかしくて、紀子は無気力に陥っているのである。

紀子は勧められたソファーには腰をおろさず、村上の机の前で右の心情とそこにいたるきょうの記者発表の模様をかいつまんで語った。

「自分でも説明しがたいのですが、発表内容以前に、科学者の持つ危険さのような感覚に捉われてしまって。科学者の(おご)というか」

 悪記事の根底にそれが有ることも打ち明けた。

「傲り、なぁ。――われわれ新聞記者もその一派やけど」

村上はため息まじりで云う。本心なのだろう。

彼もまた地方局勤務を自ら志望し、京都支局の次長に甘んじている脱中央集権の新聞人であり、紀子の先輩格といっていい。それだけに昇格争いには無頓着に、腰の据わった意義ある記事を書くべき、という紀子と相似る新聞記者観を持っている。世論を左右する先兵、と往々にして嫌味な自負を見せる大新聞の記者らもまた、奢れるマスコミ一派である、と村上が業界の現実をあえて持ち出して来るのも、そんな信条から出ているのである。

村上の言葉に、紀子も自身の心情が記者の傲慢から出ているのではないかと省みている。そうしながらも、自身が職業意識抜きで、個人として現場で生々しく感じ取ったのは、執拗にサルに電気刺激を与える科学者の非情さ、そうした行為も許されているという教授の奢りを感じさせる態度であり、

――サクリファイス。

と叫んだ助手の抵抗に見た、科学者という属性のまとう不気味さであった

「科学の落とし穴かとも思うのですが、科学者にはやはり独特な奢りがあるように思えて」

「しかし柏木さん、何ごとに寄らず、その道を拓くなり、極めるうえでは、多少の自信というか、根拠もない確信は不可欠で、科学者にもそれが必要だろ」

「その確信が一歩踏み違えると、空恐ろしいような」

紀子は口を濁した。それはあくまで紀子個人の感想であり、小説家であればともかく、新聞記者が新聞記事として読者を説得できる由縁のものではなかろう、と自身わかっているのだ。

「多少でも自身はエゴを通しているということを、自覚していれば良いんですが」

 紀子は村上デスクにそう述べるに止まった。

「そうやなぁ――」

 村上は考え込むように再び原稿に目を落とした。

「書き直します」

 紀子が机上の原稿用紙を取ろうとすると、

「いや、好えのや。柏木さんが得心ずくでないと判ったらそれで好えのや。手練れの記者がまさかと思うてな、デスクとして質してみただけや。失礼ながら酢でも醤油でもないちゅう中味やけど、一応記事にはなってるよってな、整理部に送る」

 村上はくだけた大阪弁で云った。

「すみません」

 紀子は退り、がらんとした自身の机をながめながらそこに戻っていく。村上は紀子のその後ろすがたを見送っている。互いに表情は釈然としない。

 

眼鏡の奥で、フランクの青い目が微笑(わら)っている。ビールを日本酒に替えて、すでに三本目の徳利を傾けて、上機嫌この上なかった。

春江の普段に倍する陽気さに煽られた挙句である。

フランクは客席を巡っては賑やかに戻って来て相手をしてくれる女将に、せっかくの気色を受けないのは野暮と心得ているようであり、また常連客としては女将にとんぼ返りをくり返されて愉快なようでもあった。

「出番の遅かった分、元気、有り余ってるのかね」

 春江が飯台をはなれた隙に、板前の竹内に片目をつぶってみせる。階段を下りて来た途端、鉦を叩いて回るような春江の陽気さ加減は始まっていた。

 店は九分通りの入りの盛況で、春江は客席のあいだを忙しく動き回っているのだが、折からの客足にも気を良くしているのか、ともかくも今夜の春江はかつてない弾み方である。

「鱧の焼き霜に、鴨ロース」

 テーブル席から竹内に注文をとおす声もひときわ高い。

「あらごめんやすな」

と目ざとくもフランクの盃が空になっているのを見つけ、そばに寄って彼の徳利を持ち上げてお酌をしている。八面六臂というほどの活躍である。

「サービス満点ね、わたし、なかなか帰れないよ」

「ゆっくりしておくれやす、まだ宵の口やおへんか。何どしたかいな、ほれ、あの小唄。花に戯れ、えー――ねぐら定めぬ気はひとつ」

 春江はうろ覚えの端唄を怪しい調子で口ずさむ。

「わたしゃ鶯、ぬしは梅。――鴬宿梅ね」

フランクは後を引き取らざるを得ない。

「それ、それ。お腰落ち着けて、それ出しとくれやすな」

「梅に鶯よ、春雨に濡れる鶯よ。いま六月で季節外れよ、春江さん」

 フランクはたじたじの模様であった。

春江の活気を封じ、『おくしま』の格子戸は、通りの落ち着きを映すように、軒下に()がる紅いぼんぼりの灯影をひめやかににじませている。

湿りを帯びた格子戸の引手に、そっと指がかかる。

フランクの注釈もうわの空に、微笑(わら)いながら手うちわで火照った頬を煽いでいた春江が、

「おやまぁ、いらっしゃい」

 入って来た紀子を、こぼれるような笑顔で迎えた。

 紀子は飯台前に寄り、隅のフランクに軽く会釈して席に着いた。

春江もフランクにちょっと会釈し、紀子のそばに寄った。

「ええのかいな、あてとこに直行で」

 ショルダーバッグを外して座り直した紀子は、

「桝冨は若女将が気張っておいやすから」

鈴子から受け取ったおしぼりを使いながら、寛いだ京都弁で云った。

アハハ、と笑って春江は、手振りをまじえて、紀子との会話に本腰を入れ出した。

「あんた、幸っちゃんな、お姉さんさえその気になってくれはったら、お茶屋商売だけで無うて、姉妹で旅館も始めたいのに、って。折角東京から戻って来ても新聞社辞めはる気配はちっともおませんわ、やて。本当、エライ愚痴ってはったえ」

「あの子みたいにお商売にも金銭にも執着出来たらエエのやけど、わたしみたいな呑気者はとても」

「対照的やからな、姉妹。でもまぁ、それやさかいに仲が良えのやろけど」

 と云った春江は、ビールのコップを口に運ぶ紀子のその横顔を、蛍火でも追うような淋しげな目で眺めていた。と、

「ほんにな、社長さんも大女将さんも幸せなことや、こんな仲のエエ娘ふたり持って。ほんにうらやましい家族」

 春江は万感迫った様子で、涙ぐみ、割烹着の隠しからハンカチを取り出している。

「あらたまってそんな事。たまには家族喧嘩もするよ」

 紀子は急に感傷に耽る春江に面喰い、思わずビールのコップを置いていた。

「そういう事もおますやろ。それが遠慮気兼ねの無い、ほんまもんの家族の情やないの。なんぼ言い争うたところで、最後は自然とな、血のつながりというもンはそうやろ、そうやわな。そうやのに、このあてときたら」

 春江は嗚咽し出した。紀子は驚き、竹内と鈴子を見上げたが、両人も飯台の向こうで心配そうに春江を眺めている。かれらも春江の動揺する事情が呑み込めず、戸惑っているようであった。フランクも隅で異常(、、)に気付いたようだが、ちらりとこちらを見ただけで、ふたたび盃を傾けて沈黙していた。

 春江は周囲の困惑に、ハンカチで口許を抑えながら、

「かんにん、かんにんエ。おばはんになるとな、涙もろうなってしもうて」

 と紀子や店の者に謝りつつ、鼻を啜ってハンカチを当てている。

「春江さん、疲れてはるのと違う、顔色もあんまり良うないわ」

 紀子が覗き込んでいるが、その際ちゅうにも春江の肩がふるえ出している。

「女将さん、あとやりまっさかい、二階のほうに」

竹内も尋常でないきょうの春江に、自室に引き取ることを勧めた。

「エエノ、エエノ。どうもお見苦しいところをお見せして」

 春江はフランクやテーブル席の客にあたまを下げ、

「朝方、お墓参りさして貰うて、きょうはきつい日射しどしたやろ、何や一日ぼんやりしてしもうて、暑気あたりゆうやつエ、これきっと」

 取り留めもなしにそんなことを口ばしっていた。

「紀ちゃん、(はも)どう。京都の旬の味やで、懐かしいやろ」

 熱にうかれたように口数を重ねる春江を、紀子は心配そうに見つめている。

「あんた、せっかく京都に戻って来たのや、な、鱧」

 春江は止めどもない。

「こないだな、古希迎えてようよう芸妓引退しなさった豆千代姐さん、あんたよう知ってるやろいな。桝富のお座敷にもよう出てはったやろ。こないだ郷の丹波からわざわざ出て来はって。それがなんと鱧の落しが食べとなったさかいゆわはって。二人前ぺろりと食べて行かはるがな、元気やろ」

 紀子は逆らわず、

「わたしも鱧いただきます」

と微笑しながら云い、飯台に架かった春江の指に、自身の手を重ねた。

「かんにんえ、阿呆やろ、女将がこれではなぁ」

 春江は紀子に指を預けたまま、一方の手でハンカチを目の淵に当てていたが、グスンと鼻を鳴らすと、笑顔浮かべ、どうにか立ち直った表情を見せた。

 

                   3

 

 翌日午後、法泉寺の白い土塀ぎわを、日傘をかざして、大きな風呂敷包みと手提げ袋を提げた春江が、先を急ぐようにすたすたと歩いていた。

人気のない塀沿いの道を余程行って、春江は切妻の瓦屋根を上げた四脚門に行き着いた。その角柱には、確かに法泉寺と墨書された大きな札が掛っている。

門の内を窺うと、右側には表と同じように白い土塀が一直線に伸びて、左側は生垣が続いて、時どき塔頭の瓦屋根が上がっている。

春江の予想に反して、かなりの敷地であった。春江はためらうように門前に佇んでいたが、やがて意を決し、門をくぐってまたすたすたと進んでいた。

「すんません、墓守のおじいさん、どこら辺にお居やすか」

 土塀沿いの側溝に屈んで何やら探す、丸坊主に作務衣の、中学生ぐらいだろうか、こどもの坊さんに声をかけた。小坊主は四つん這いのまま顔だけをねじって、

「はぁ、墓守のおじいさんは何人か居ますけど、住込みの爺やんのことですか」

「そう、多分そのお方」

「――やったら」

 と小坊主は立ち上り、ぱんぱんと手を払い、裏山に通じた境内の一画を指さした。

「居あはるかいな」

()るな。リヤカー引いて帰って来るとこ見た。今時分は小屋で昼寝でもしとるな」

「おおきにありがとうさんどした」

春江は紙の手提げをごそごそやって、羊羹を一本取り出して小坊主に渡した。小坊主は予想外の礼物に驚いたようだったが、鼻を鳴らして大いに頷いたのは、僧侶の威厳をつくったつもりか。ついひと言、春江は投げかけた。

「なんぞ探して居あはった」

「蟹。こんなとこでも沢蟹が獲れますね」

 山間から湧出する清水を集めるのであろう、岩藻を撫でる側溝のながれは、あくまで透きとおっていた。

(Dにつづく)