暮 鐘 ⑶
5
左のスクリーンにサルの首から上の顔が大写しにされた。
口を閉じ、白目の無い、開いたまぶたいっぱいに黒いひとみを向けている顔は、無垢とも云うべき無表情である。
突如不意を衝かれたように、サルが大口を開けた。
サルの背後に立った助手が、サルの背中にコード付きのパッドを押し当てたのだ。
同時に、スクリーンの波形が直線的に伸び上り、急激に線形が増幅して林立する稠密な線群になって反覆した。
「いま電気刺激が加わりました」と教授がマイクごしに告げた。
「刺激に応答する扁桃体インパルスの模様です。線形の密度濃い増幅はインパルス放電頻度の増加を示して、応答が次第に活発になって行く様子です。今度は電圧を上げて刺激します」
教授が云い終えると、ふたたび助手がサルの背にパッドを押し当てた。スクリーンの波形がいっきに上昇して、明滅する数多くの緑いろの斑点が表われ、やがて斑点が火花のように飛び散ると、さらにその上方に青い斑点が出現して明滅しはじめた。
「インパルスによって放出される化学的な物質情報を受けてストレスホルモンが分泌し、その濃度レベルに対応して、緑から青へとスパークして色変化を遂げています。明滅は反応の時間的変化で、つまり神経細胞が生きているという証拠です」
教授の声がスクリーンの映像に重なる。青く明滅する斑点が上昇して火花が散り、染み出るように赤い斑点が現れて青い火花と混じりあった。パッドは押し当てられたままだ。左のスクリーンに、サルの表情があった。黒いビー玉を嵌めたような、一見平静な目とは裏腹に、大きく口を開けては閉じを繰り返している。間違いなく苦痛を感じている表情であった。苦痛は次第に高まっている。右のスクリーンには緑と青の斑点が減じ、赤い斑点の明滅が画面の殆どを占めていた。
助手がパッドをサルから離した。途端、サルは口を閉じ、赤、青、緑と順に斑点が消えて、オシロスコープの波形に戻り、林立する直線は、徐々に規則的な山なりの波形に変わった。
紀子はホッと溜め息を吐いた。
やがて大教室の高い天井から舞い降りるように、静かに音楽が流れだした。
バッハの『G線上のアリア』で、周囲の白壁に沁み込んでいくような、荘重で優雅な調べである。
サルが大口を開け、同時に青い点が明滅し出した。サルの背後にパッドを当てる助手は居ない。
「左右のスクリーンに、ストレスが表われています。あ、赤い点が出ましたね。サルの扁桃体はいま怯え、竦んでいます。音楽止めて」
不意に音楽が止んだ。サルは口を閉じ、青、緑の斑点が消えて、オシロスコープの波形に戻り、林立する直線は、徐々に規則的な山なりの波形に変わった。
「音楽だけで反応が表われました。じつは過去十日のあいだ、サルにいまのバッハの曲を聞かせました。曲が流れている間、断続的に電気刺激を加えました。このサルにはG線上のアリアは、心を和ませる音楽ではなく、怖れを報せる信号となったのです。サルの扁桃体はこの曲が聴こえれば、電気刺激が来るということを記憶しているのです。もうひとつお見せしましょう」
助手がサルの背後からサルの目の前に立ちはだかり、パッドをかざした。すぐさまスクリーンにはサルの怯えが、片や、生の表情、片や緑色の点滅となって表われた。
「腹部、つまりサルが見える前の部分で電気刺激を与えることを繰り返すと、パッドを見ただけでやはり扁桃体の記憶が反応を引き起こします。いずれこの助手君を見ただけで反応を起こす実験にかかる予定です」
教授は冗談を云ったつもりなのだろう。
助手たちがにわかに動き始めた。一人が新たに一張のスクリーンを運び入れ、しばらくのちに、固定装置に身動きを奪われた別のサルを運んで来た。
このサルの頭の天辺は毛を剃られていたが、電極を挿入する筒は植えられていない。この新参のサルは、もう一匹と向かい合う位置に据えられ、やがて下手のスクリーンに新参のサルのかおが映った。
そのかおに表情の変化はないが、対する既出のサルの方で、両耳が一瞬微かに動いて、オシログラフの波形が直線化して蜜になった。
対するもう一方のサルのスクリーン上の表情は、相手の向こう側を眺めているようで、定かな視線が捉えにくかった。
「新参のサルは母ザル、つまり二匹は親子です。あえて親子を対置させたその理由はこの後の反応をご覧いただいたうえでご説明しましょう」
二匹が対置された時、子ザルの方の両耳が動いたのは、母ザルと対面し、興奮した反応にちがいなかった。もっとも母ザルの方は何の反応も示さなかったが。
その母ザルの胸もとに、助手がパッドを当てた。母ザルは大口を開けて、激しい苦痛の表情となった。もう一匹はというと、子ザルはパッドの押し当てなしに、赤い点が表われた。
助手がパッドを離し、二匹の間から去って、後方に引き上げた。子ザルのグラフは徐々にもとの波形に戻って行った。
ふたたびバッハの『G線上のアリア』が流れてきた。子ザルのグラフは早くも緑と青の斑点が明滅していたが、母ザルのスクリーンは、どこか虚ろなままのその表情を捉えるだけであった。
音楽が止んだ。子ザルのグラフが次第に正常な波形を描きだしたとき、助手がパッドを持ってサル親子の間に立った。子ザルのグラフに早くも色彩が点滅し、表情も口を開ける例の反応となった。が、母ザルの方は表情が変わらない。
「母ザルは無表情ですね。この母ザルは扁桃体の一部が切除されています。子ザルはパッドを見て、電気ショックを与えられるという恐怖の記憶がよみがえって、インパルス放電が増加しました。ところが扁桃体に欠損のある母ザルは、パッドによって与えられたばかりであった電気ショックの記憶が蓄えられていないために、パッドを見ても表情に変化がない。別の言い方をすれば、パッドを見せられるという外から与えられた感覚刺激と、苦痛な電気ショックを結び付ける働きが母ザルにはできない。これは資料にも触れていますが、有名なクリューバ―・ビューシーの研究報告にある恐怖を覚えない、つまりは生存するために予感すべき危険性の察知ができないという、扁桃体欠損による情動の本来的機能の低下を示すものであります」
云い終えると、教授は二匹のサルの間に立つ助手に、目顔で頷いた。助手は子ザルの胸にパッドを当てた。子ザルは口を激しく開閉させて、グラフは明滅した。母ザルは相変わらず表情の変化を示さない。助手が子ザルの胸からパッドを離した。その助手はスクリーンを見つめて、子ザルの反応が収まると、母ザルの背後に回った。そしてパッドをその背中に押し当てた。母ザルは口を大きく開けて、苦悶する表情を見せた。
驚くべきことに、子ザルも口を開けて、自身苦悶するような表情となった。苦痛を予感させるパッドは子ザルには見えていないにも関わらずであった。波形も色の明滅になっている。
子ザルのインパルス頻度は急激に増加したまま変わらず、盛んに色彩が明滅する。
(母ザルと一緒に苦しんでいる)
紀子はそう思い、この実験の非情さに背筋が寒くなった。
説明する教授は淡々として、何の呵責も感じられない。
「ご覧のとおり子ザルの方は、電気刺激も受けず、その予兆であるパッドの存在も見ずに、色彩を散乱させています。云うまでもありませんが、子ザルはかれの目の前の口を開ける母ザルの反応に、反応しているのです。自身の母だから、口を開けるという親の苦悩の表情に激しく反応しています。また二匹が対面した時、子ザルが反応して、インパルス放電頻度が増して、グラフが稠密な直線を描きました。母ザルの表情にはそんな感激の様子はなかった。親子関係というものにも扁桃体が重要な役割を担っている。子のサルが親の苦しみを見ただけで、恐れおののいている。敢えて親子のサルを実験材料にしたのは、扁桃体が情動中枢であるという証明の一端ではありますが、私ども研究室では現在のストレスホルモンの濃度による色分けから、将来はより進化させて、親子の情なら何色、さらには異性への恋愛感情なら何色というように、情動各種の色分けを可能とする視覚化に挑んで行こうとしているためです。そしてまたこの過程が不安障害の治療薬開発に自ずと結びつくことも期待されています」
紀子は胸が痞えるような晴れない思いがした。
――敢えて親子のサルを実験材料にした…。
と教授の云うその目的も科学的意義も一応わかりはした。しかしそれは紀子の理性がそう命ずるだけで、こうして実験を観、教授の説明を聴いて、視覚にも情動にもリアルに迫って来たのは研究目的で淡々と行われる、科学の非情だった。
サルと云えども、現にこうして人と変わらぬ親への愛情を示している。その感情を弄ぶような実験が、科学の名のもとに誇らしく行われる。
紀子の常識は、今日の医療、医薬の進歩が、過去の動物実験の積み重ねの上に成り立っているのは良く弁えている。また、
(実験のショックで過敏になり過ぎているだけか、それとも気弱なセンチメンタリズム? )
と追いかけて来る自問もある。
あるにしても、目下、どうにも整理の着かない割り切れぬ思いが渦巻いている。
母ザルの口の開閉が止まった。その背から助手のパッドが離れていた。
母ザルは口を閉じたまま、元の、遠くを眺めるような、目の前の我が子には視線を向けない、捉えどころのない表情に戻っていた。
「情動中枢である扁桃体からの信号により、ノルアドレナリン、およびコルチゾールが分泌され、すくみなどの恐怖動作を産む、とは冒頭お話しましたが、それがこの度の情動の視覚化研究の基盤となる生体の原理です。信号強度によるストレスホルモンの濃度変化を、斑点の数量変化、色変化、位置変化で視覚化したそのエモーショナルな模様を、あらためてご覧戴きたいと思います」
教授は自慢の「エモーショナルな視覚化手法」をもう一度記者に見せて、わが成果を印象付けたいのであろうが、サル親子を面と向かわせて、故意にエモーショナルな場面を設定する一種あざとい公開方法に、紀子は決して好感は持てなかった。正直もう沢山であった。
『G線上のアリア』が紀子の思惑を無視するようにまた流れ始め、若ザルのグラフに色彩が表われて明滅した。
「電気刺激」
教授の声に、助手がパッドを母ザルに押し当てた。たちまち母ザルは口を開閉させた。突如若ザルが「キーッ」と鳴き声を上げた。
紀子は初めて声を発したサルに驚いたが、教授も同様に意外な面持ちで、当の若ザルを眺めていた。助手がパッドを離すと、教授は「続けて」と切るように命じた。弾かれたように助手はまた母ザルの背にパッドを押し当てた。母ザルは拘束されながら「キー」と振り絞るような鳴き声を上げた。これも初めて発する鳴き声だった。呼応するように若ザルもふたたび鳴き声を発した。二匹が断続的に鳴いた。教授は記者らに背を向けて、三つのスクリーンを食い入るように見つめている。
(もうやめて)
紀子はあまりに無惨な場面にいたたまれなくなった。
助手がパッドを離した。教授が「続けて」と許さず、身を乗り出してスクリーンを注視している。
その助手は骨細なひょろりとした体型である。細面に眼鏡をかけた、いかにも大学の研究助手らしい、知的だが下積みの研究生活に追われて、覇気を奪われているような印象の若者であった。すなおに教授の命令に従い、パッドを母ザルの背に押し当てている姿勢も表情も謹直で、およそ襲い掛かるという気魄からはほど遠かった。
その助手がパッドを母ザルの背から外し、すいと斜め横にずらして、泳ぐような動作で、やにわにスクリーンを見つめる教授の横顔に当てた。
不意の出来事に教授は咄嗟にパッドを払いのけて、振り返り、正気の沙汰かといった面持ちで助手をみつめていた。助手はにやにや笑いながら、またひょいと教授の顔にパッドを当てた。
講壇の異常事態に、記者席も教授の周辺もどよめいた。
パッドを払い、助手を押しのけた教授は、他の助手たちに目配せして、異常に走る助手を教壇から連れ出させた。背後から羽交い絞めにされ、左右の肩を抑えられた助手は、扉の影に押しやられる瞬間、「サクリファイス―」と大声を上げた。
助手の絶叫が耳にこだましたまま、紀子の視線は教壇を外れ、窓辺にただよった。
炎天下、銀杏の木立がかげろうのようにゆらいでいた。
(Cにつづく)