暮 鐘 (1)
1983年―炎天
一
柄杓の水がきらきら路面におどり出る。
めくるめく陽が差して、玄関口の犬矢来にひかりの帯がまばゆく横たわる。水を打つ春江の気勢に、つい拍車がかかる――。
六月初旬というのに、真夏のような陽光がそそいでいる。
まめまめしく柄杓を揮う春江の傍らで、氷屋が軽トラックの荷台を開けて、せっせとのこぎりを挽いている。清涼な音。料理人がおろす鱧の骨切りに似たその音も、蒸し暑い京都の夏をいっきに先取りする。
軒なみ、年中よしずを垂らす二階家の茶屋、料理屋のまち祇園花見小路だが、それにしても梅雨どきに、時候はずれの暑気だった。
もっとも通りの朝の光景はいつもとさほど変わらない。
酒屋と鶏卵配達のライトバンが少し行っては停車する。向い側では、台車を押して、前夜のおしぼり回収のために業者が軒先を拾い歩く。そしてけさも春江の目の前を、簡単服で自転車に跨った老婆が、緩慢にペダルを踏んで漕ぎ去ってゆく。
いつもながらの祇園まちの朝は、軒灯やぼんぼりに灯がともり、仕出し屋、芸妓、舞妓が行き交い始め、そぞろ花街の活気がよみがえる夕刻まで、まだ人影もまばらで閑散としていた。
「ほい女将さん、二貫目」
「おおきに、頼んだエ」
氷屋の若い衆は心得ている。云うより速く、いつもの二貫目より目方のありそうな切り出しを鳶口に引っかけると、白いゴム長を鳴らしながら春江の脇をすり抜けて、格子戸が開いた『おくしま』の敷居を跨ぐ。
勝手を知る店奥へと、ずかずかと入って行く若い衆と入れ違いに、隣家のお茶屋の門扉が開いて、カメラとショルダーバッグを肩にしたその家の長女が、すらりと背筋の伸びた姿を現した。
「おはよう」
前栽越しに、彼女は春江ににこやかな挨拶を投じる。さらりとしたロングヘアーが日射しでハイライトを帯びていた。
「おはよう。けど暑いな、まるで真夏」
春江も屈託のないほほ笑みを向けた。
隣家の長女は、けやきの数寄屋門を背に、抜けきった空をまぶしげに見上げて、吐息を吐くような顔をして見せた。得足りと、春江は、
「梅雨の晴れ間にしては極端すぎるわな。けど、どやいな紀ちゃん、暑いのはともかく、よろしおッしゃろ、やっぱり京都は」
と、しずくの滴り落ちる柄杓を手に、相手をしみじみ見つめていた。
八年間の東京勤務から、京都に転勤を果たして間もない紀子であった。
いささか押し付けの判定ではあったが、陽気に決めつける春江に、紀子は笑顔になって、いかにも充足して見えた。
「そうどっしゃろ、紀ちゃん」
「まあね」
気の置けぬ仲のやり取りだが、互いに沸々と通い合うものがある。
奥嶋春江五十四歳、柏木紀子三十九歳。――年齢の開きこそあれ、互いに生い育った此処京都には、幼い頃から刻み込まれ、幾重にも折り畳まれた、格別な数々を蔵していることは、双方口にせずとも分かっている。以心伝心、ふたりには通じ合うのだ。
ふたりは二十二年前、春江が小料理屋『おくしま』を祇園花見小路南のこの場所に開業して以来の、気の合う隣人同士であった。
「紀ちゃん、ホンマ、良う帰ってきはったもンや」
ほんのふたつき前に東京から戻って来たばかりの紀子は、発行部数日本一の東日新聞東京本社から、エリート記者としての進路を自ら枉げ、自主的に京都支局への転属を願い出、容れられ、帰郷して来たのである。
京都以外の暮らしを知らぬ京都びいきの春江には、紀子のその選択が、手を拍って喝采したいほど喜ばしい。
確かに紀子は充足していたであろう。春江を睨んで、
「わたしが出勤のたびに、やっぱり京都は良ろしおッしゃろ。――けさで、かれこれ十回目どす。うち、もう耳にタコどすけど」
普段使わぬ京都弁を交えて応酬した。
「あれゃ、そうどしたかいな、そないに執こうに、そうか……、いややでぇ、年取ると、おんなじこと何べンも云う」
春江は自分で可笑しがっている。あくまで明け透けで陽気な春江に、紀子もつい興に乗る。
「きのうは続きもあったわ――婦人記者みたいな先端走っておいでても、やっぱり京おんなは京以外では埒の明かンもンや、何せ東京は東の京で、こっちは東も西もない本家の京どっしゃん――って」
「ハハ、そう云や、どこぞで聞き覚えのある科白。たった今もそれ云うつもりどしたがな、ハハ」
快活に笑う春江を眺めて、紀子はカメラとショルダーバッグを掛け直し、「じゃあ、行ってきます」と告げ、間髪入れぬ「あいよ」の春江の声に送られ、自宅の玄関をあとにした。
春江は颯爽とゆく紀子のうしろ姿を見送りながら、
「取材? 」
と幾分晴れがましさの籠った声で問いかけた。紀子はふり返り、陽に映えた笑顔でうなずいた。
要所々々に段差をつくる堰が、浅いながれを絹糸のような落水に変える。
清冽な鴨川のながれは、夏場のようなけさの暑気に、さわやかな涼を呼ぶ。
取材先の大学へと、川端通りの緑がきらめくような街路樹の下を歩きながら、紀子は春江に云い当てられたとおり、京都に帰って来たよろこびをひしひしと噛みしめている。追いかけるように、
――所詮、マスコミの仕事は、流行に乗ることでしかない。
去年東京本社で、直属の社会部部長に言い渡された状景が浮かぶ。
さかのぼる一九八〇年の年明け間もない時期、イギリスの世界的グループの歌手が来日、成田空港に降り立つや、拘束され、予定されていた日本公演が全て中止となった。
大麻不法所持による現行犯逮捕であった。翌八十一年六月、東京深川で白昼、親子連れ三人と女性一人が、路上で見知らぬ男に突然刺殺される通り魔殺人事件が起こった。逮捕された男は覚せい剤中毒症だった。
去年八十二年二月には、大阪市西成区で夫が妻を刺殺、息子を刺傷させた上は、同じアパートの住民三人を殺害、二人に重傷を負わせる無差別殺傷事件が起こった。逮捕された男もまた覚せい剤中毒者であった。
東京の二つの記事は紀子自身が書いたが、大阪の事件の報道に接するに及んで、紀子は社会部の部長に、大麻、覚せい剤などの違法薬物販売ルートについての調査報道を願い出た。
薬物事件は有名芸能人が当事者であったり、通り魔的殺人が突発するなどで、その都度、
大々的にトップニュースとして報道されるが、事件の温床はつねに存在している。それが薬物の輸入販売・製造ルートにほかならず、紀子はかねてそこを白日にさらすことこそ、記者の役割だと感じていた。部長は紀子の申し出に対し、
――調査報道? ヤク中は事件が起こってからで充分だ。柏木さん、あんたの目の前じゃ、書くべき事件が毎日のように起こっている。
と一蹴した。
なお食い下がると、部長は困惑の表情を浮かべた挙句、判決の言い渡しのように、「我々
マスコミの仕事は所詮流行に乗ることでしかない」と新聞記者の仕事の本質を、辛辣に述べたのである。
一方で部長の困惑は、恐らく、薬物ルートの取材対象が主に暴力団となるのは自明で、そこに婦人記者が首を突っ込む危うさを憂慮してのことでもあったろう。
とは思うが、それこそ流行に乗るように、新聞社が時どきの注目されそうな事件を取り上げて、後は知らぬとばかり毎日記事を垂れ流しているのは、紀子にはあまりに無責任に思えた。
(ただ時流を追いかけるだけ。――)
何日も自問したが、紀子は浮かんでは消えていく泡のようなその事実を、新聞業界の一つの真実として受け止めた時、急に故郷京都が恋しくなったのである。
同時に本社に居て、華々しいスクープ記事をモノして、記者として注目を浴びようという野心も泡のように消えていた。
同じ社会部部長に京都支局への転属希望を洩らしたのは、それからほどもない。
紀子のにわかな意向に、部長はデスクへの昇進、つまり自身の次位の次長ポストも仄めかせて慰留した。が、紀子の決意が翻ることはなかった。
京都支局への転属は、支局長でもデスクでもない一記者としてのそれであり、記者生活の振り出しに、支局勤務を命ぜられる新人記者らに立ち混じっての、記者生活十六年目の紀子にとってはいわばみやこ落ちの配転である。しかし紀子には本望で、紆余曲折の末ではあるが、紀子の配転が叶えられたのには違いなかった。
同僚記者など周囲からは、郷里での縁談、あるいは家業の老舗お茶屋を長女として継ぐため、などの憶測を呼んだが、事実はいずれでもなく、また新聞記者が嫌になったからでもない。紀子はふたたび京都で暮らしたいと心から思い、そうと決心しただけである。
川端通りを左に折れてゆく内に、横断歩道の向こうに、構内奥に時計台を屹立させて、がっしりとした石造りで迎える大学の門構えが紀子の目に入った。
二
打ち水を終え、店内に戻った春江は、性格でひと息入れるでもなく急わしない。
せかせかと割烹着を客席に脱ぎ捨てて奥の間に上ると、立ったまま鏡を覗いて、手早く外出のための身支度を整えている。
「財布に、お数珠や」
ひとりごとを洩らしながら、それらを単衣の懐に押し込んで店の間に戻り、追っ付け市場から戻る板前の竹内宛に、十一時過ぎには帰る旨のメモを走り書きしている。
書き終えて、「よし」とまたひとり発し、入り口に向かい、傘立てから日傘を掴むと、くるりと振り返って店内を見まわした。
四人掛け三組の席、八つの椅子を前にした白木の付け台、淡路瓦の床、どこも掃除が行き届いて、磨きがかかっていた。
ウン、とあごを引いて春江はおもてに出た。
これから半月に一度の割合いの墓参に出かけようとしている。
花見小路の通りを行くと、まだ素顔に浴衣がけの舞妓が、花篭と呼ばれる手提げを腕に通りかかって、「おかあさん、おはようさんどす」と立ち止まって、割れしのぶに結った頭を下げた。春江もいったん立ち止まって、「おはようさん、きょうも一日おきばりやすな」と返した。欠かさぬ挨拶こそ祇園のしきたりである。
八坂神社の西楼門前――通称祇園石段下を東大路通り沿いにてくてく歩く春江は、大谷本廟の唐破風の総門が見える手前で折れて東山の起伏を目指す。
バスやタクシーの騒音が断たれたふもとの坂を上がって行くと、右手の斜面に広大な墓域が広がり、いにしえからいまにつづく鳥辺山墓地である。
春江はハンカチで汗をぬぐいながら、坂の途中の花屋に寄った。
供花を買い、そこに預け置きしてある自前の水桶や線香、抹香、ローソクの一式を提げて、墓地の通路を折れ曲がり、ようやく父母の墓前に立った。
墓石の周りは、半つきのあいだに雨後の雑草が玉砂利の間から伸びて、枯葉が風に吹き寄せられていたりした。春江はまめまめしくそれらを取り除いたうえは、花を供え、線香に火を点した。うすく立ちのぼるけむりに鼻先を添わすように腰をおろし、
「お母ぁはん、お父ぅはん、やって来ましたで」
と、南無阿弥陀仏の刻銘に呼びかけたのは、半月ぶりにやって来た、甲斐ある気持ちが過剰なぐらいこもっていた。やがて小声で念仏を唱え始めた。
(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……)の声が、(光顔巍巍 威神無極) (如是焔明 無与等者………………)の讃仏偈となって、積年の墓参の真骨頂を発揮しはじめる。
春江は瞑目している。時折りカラスの鳴き声が聞こえるのみで、自身の読経の声のほかにはあたりには物音もなく、人影もない。春江にとって墓参のひととき、なかんずく読経のこのあいだは、日常を離れて完全無欠の静寂に浸れるこころ安らぐ時間となっていた。
念仏を終え、目を開けると、山麓に展開する墓石の群れや東山の峰々を蔽うみどりが、鮮烈に視界に飛び込んだ。急に現世の息吹が蘇えったようで、この瞬間もまた、春江の小さな悦びのひとつとなっていた。
春江は洗われたような気分で腰を上げて、しばし去りがたい面持ちを墓石に向けていた。やがて、
「お母ぁはん、お父ぅはん、また半月後に寄せてもらいますよって」
と踏ん切りを着けると、基壇の燃え落ちた線香の灰を払って、ふたたび墓石を見つめていたが、フッとひと息洩らしてようやく墓前を後にした。
日差しはさらに強まり、真夏のような暑さである。春江は日傘をかざし、触れれば灼けそうな墓石の群れを縫った。
帰路となれば、背中に聞こえるカラスの鳴き声が何かしら不吉に聞こえる。
春江は意味もなく急ぎ足になっている。
枯草の掃溜めが鳴った。
(カラスやろか)
春江は辺りを窺ったが、通路ともいえぬ、大小の墓石のあいだを経巡る墓域がいよいよもどかしく思えた。
春江がかざす日傘の向こうに、江戸の昔の古い年号をきざむ苔むした墓石がある。さらにその先には見上げるような仏塔がある。
曲がりくねり、セメント塗装の道のひび割れが奔る春江の足もと。
暑さの所為か、まぶたが半閉じになってしまうようなぼんやりが襲う。春江は流れる汗を拭うのも忘れている。
物音に、ハッとふり返った春江の視線に飛び込んだのは、天辺の一角だけ照り返しを受けた黒い御影石の墓石だった。春江はハンカチを取り出し、人影のように立ちはだかる墓石を眺めてようやく汗を拭いていた。
ふいに墓石の影で白っぽいものが揺らめいた。
(なに――)
春江は先を急いだ。
直後、「あーあ」と、気だるいあくびのような声がして春江の足を止めた。春江は背すじを奔る悪寒を押し殺し、後ろを窺った。が、墓地に人影はない。
(空耳? )
と疑いながら、春江は空唾を呑み込んで、また歩きだした。
数歩も行くと、見えない糸に操られてでもいるかのように、春江はつい「誰? 」とふり向いていた。まぶしい陽のひかりが、セピア色の古写真のように、見返った墓地を黄褐色に染めている。
御影石の墓石のかたわらで、陽炎のようにひとりの老人が佇んでいた。
日に晒された泥まみれの白シャツと草臥れた黒いズボン。老人は案山子のようにその場に立ち尽くしている。春江は息を呑んで見つめていた。
老人から声が洩れた。ぼそぼそとつぶやくような問いかけであった。
「あんた、奥嶋の縁者さんで」
八十歳前後か、黄色っぽい白髪と丸い肩。日差しがごま塩に生えたひげをひからせていた。春江は恐る恐る応えていた。
「はあ、そうどすけど」
「ほうですか、ご縁者はんで」
老人は納得したかのように皺ばんだまぶたを瞬かせ、虚空をみつめた。そしてつぶやくように、
「墓に刻んである法名、浄昌尼となってましたな、昭和三十年十一月三日没」
と云った。春江は気味が悪い。後退りしながら、
「どなたはんどすの」
と声を尖らせた。老人は通路のひび割れから生えた雑草を踏んで、二、三歩、歩み寄ってきた。春江はさらに後退りした。老人はしょぼしょぼとした目もとを凝らして、
「あんた、昌江はんの娘はん、春江はん」
「なんでどすの」
春江は恐れと不可解とで、詰るように問い返した。
「なんでて、あんた――」
老人はまごついている。
焦れったく絡んでくる相手に、春江は恐怖を押し返すように、
「うちの墓には法名だけやない、横手の墓誌に、俗名も建立者の名まえも彫っておまっさかいな」
と云った。物乞いの手口ででもあろうかと思ったのである。だが春江の舌鋒にも老人は動じない。
「そう云や、わしの名ァも彫ってあった。奥嶋康蔵、昭和二十年八月十五日没、享年四十歳、法名月康居士――げっこう、と読むのか。そやが、なんで法名に月の字が付いたンや、わしゃ月にはなんの縁もないが」
老人は春江の気色など眼中にないように、とぼけた言を吐く。
「ちょっと、あんさん、わしの名まえて、死んだおひとがこの世にさまよい出て来はったとでも云わはるのか、怪っ態な云いがかりもほどほどにしなはれ」
春江は気色ばみ、得体の知れぬ老人からかおを背け、くるりと背を返して歩きだした。
「奥嶋康蔵の骨、墓の下に無いやろ」
春江はぎくりとして立ち止まった。ふり向いて声を震わせた。
「まさか、あんさん、墓の下まで暴いたのやおへんやろな」
「そんなこと、せえへん」
老人は春江の剣幕もどこ吹く風で、春江をふたたびしげしげと眺め、
「ほうやな、やっぱりあんた昌江の娘、奥嶋春江はんやな。目もとは小さい頃と変わらへんが、えらい老けてしもうた」
憐れむように述懐をつぶやく。憐れまれる春江こそいい面の皮だが、老人はあくまで図太く、春江の感情などに一向頓着しない。春江は苛々と云った。
「あんた一体だれ。物乞いか。おカネ欲しさに出鱈目ばっかり、ええ加減にしなはれ」
「春江、わし、あんたの父親や」
春江はたちまち目を瞋らせて、
「誰ぞひと呼びまっせ」
桶を持つ手を上げて、今しも投げつけるそぶりをした。
老人に初めて狼狽の気色が浮かんだ。
「わしの顔見覚えないか。お前、終戦の時はもう十五になっとったはずやが、その前の年に、わしいっぺん京都に戻って来たわな。いまはもう無うなっとったが、妙心寺の東のねきにあった花園の家で逢うたわな。憶い出せんか」
ぽつぽつと繰りごとをならべているような話し方だが、すがるような響きもあった。
その微かな調べは、春江に遠い記憶を甦らせる。
老人の片言からは、長々と続く大寺の築地塀、広大な寺域に安心を委ねているように、区々と寄り添い建つ家並み。そのどれも似た家の、似た前栽を置いたわが家の玄関。その屋内の、途中坪庭を設けた細長い部屋の様子。近所の駄菓子屋や粉を吹いたような地道の通学路など……。
遠い記憶の断片が次々つなぎ合わさって行くに連れて、老人の言葉のことごとくが、春江の胸に切実な響きとなって訴えかけてきた。
春江は、
(目の前の薄汚れたこの年寄りが、わたしのお父うはん? )
信じられないが、老人の顔がどこか見覚えのある父の面影と徐々に重なってくる。
春江は息苦しくなった。
老人の背後に、東山の峰々が目に染みるような緑で晴天を劃している。
春江にとっては、鳥辺野と云われるこの墓域にやって来ると、日常が追いやられて、死者との無言の会話のみが成立する。ここでは静謐に浸れて、あらゆる煩いが遠のいてくれる。
なのに、突如、玉砂利を敷いた基壇の土くれを押し上げて、死者自らひょっこりと現われ出て、かけがえのなかった静けさをかき乱してしまった。
母の死後、天涯に肉親なく、自身の結婚も子もなく過ごしてきた歳月は、ほかでもない、死者の面影を唯一のなぐさめとして生きてきた、いわば死者によって生かされる、悲哀の甘美に浸って来られた歳月であった。
それが当の死者が甦った事によって、いま見事に覆され、自身のこれまでは、形骸のない茶番を演じてきたに過ぎなかったのだと宣告されたに等しい。
このどんでん返しのような事態に、春江は今にもへなへなとその場で崩折れそうになっていた。
一方では、自身の弱腰に反発するように、かけがえないこころの平衡を奪い取った相手に対して、煮えるような怒りの感情が突き上げていた。
いまさら何を――。と、春江は相手に投げつけてやりたい。もし、本当に父親ならばだが。
が、文字どおり土中から這い出して来たように土汚れた当の相手に、いまはかすかながらも父の俤を見出してしまった。
老人の云うとおり、墓には父康蔵の遺骨は無かった。
(Aにつづく)